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ひつじ雲の月夜の下で
「今年は秋がない」と度々耳にするけれど、わたしは心の中で「いいえ」と首を横に振る。
ちゃんとそこにある秋を、わたしは知っている。
17:00を過ぎたらもう夜ははじまる。
なおさんの入院先の病棟までバスと歩きで一緒に行ったのが朝。
少ないんだけれどまとめると案外重い、入院時の荷物。そうだよね数泊の旅行と考えれば当たり前だよね、なんて思いながら案内された4人部屋の一角。
彼はこの日のために新調した端末の充電器とワイヤレスイヤホンを取り出して、コンセントを探す。わたしは、健康診断センターの更衣室のロッカーよりもスリムな棚に、服やら洗面用具やらを入れていって。
ほんとうに狭いなぁでもしかたないよなあ、って、夫の心境が気にかかりながらも荷物を片付けた。
「いつも飲んでるお薬は持ってきてますか?」
カーテンを少し開けて看護師さんが言う。夫と目が合う。ああこれはしまったな。
「なるべく早く持ってきてほしいんです」と申し訳なさげに言われて、こちらが恐縮した。
「持ってきてって昨日ちゃんと言われてたやんか」
「そうだっけ?あれ飲んでて意味あるかわからんかったもん」
「そういう問題じゃないのよ」
4人部屋は満室で、だから仕切りのカーテンの中でコソコソと言い合う夫婦。わたしもちゃんと家を出る前に荷物を指差し確認すればよかったと反省。このあとの選択肢はひとつしかないと気合を入れ直した。
そんな大事なものを取りに夫を置いて帰って、今度は自転車で病院へ向かったのが昼。看護師さんに渡して、彼には会わずに自転車で帰った。
天気はまあまあ良くて、信号で止まるとじんわり汗が滲んでくるような。
止まったときにふと見上げた空。夏よりも少しくすんだ優しい青に、うろこ雲が薄膜を広げている。
きれいだなと思ったし、集合体恐怖症のわたしは少し鳥肌もたった。
「母ちゃん、今日はバタバタやね」
二度目の帰宅で長く息をつくわたしにすり寄ってくる、猫。まだお昼ごはんの時間ではない、母ちゃんは騙されんよ?
「そうやね、でもこれでひとまず、父ちゃんはたくさん寝れるよ」
「ほんまに?ぼくよりたくさん寝るん?」
それは……どうなんだろうか……。
後をついてくるかわいい息子をたまによしよししながら、今朝、後回しにしていた家事をはじめた。
洗濯機が終わる合図を鳴らした頃、猫はようやくお昼ごはんの時間を迎える。
今頃なおさんはめちゃくちゃ痛いらしい注射かな?それともめちゃくちゃ痛いらしい検査かな……そのあとは絶対安静でお手洗いもナースコールしなければいけないとかで、2時間は面会謝絶になる。
いつ頃面会に行こうかな、とか色々考えながら家のことをしていたら、暮夜なんてあっという間だったんだ。
ある程度?半乾きまでになった洗濯物たちを浴室乾燥に切り替えるために移動させる。わたしが何かと動いていても、お腹いっぱいになったまるはもうわたしのことを目ですら追わず、気持ちよさそうにハンモックで爆睡していた。
痛ーーーーい注射を2回も喰らったなおさん。
18:00には夕ごはんが運ばれてきたらしい。毎日の夜の食事が仕事の関係で23:00前後になってしまう彼にとっては、ベストな時間帯と言われるこれが結構つらかったという。
メッセージで感想を聞くと、
「鮭は美味かった」
とのこと。ちなみに野菜に好き嫌いが多くて特にブロッコリーが駄目ななおさんだけれど、そんなブロッコリーがたくさん入ったなんだかわからないモノも頑張って飲み込んでやったそう。
偉い!
やっと彼がのんびりできる19:00頃に、わたしはこの日3度目の病院に着いた。自転車のかごには、タバコが吸えずに口寂しい思いをしている彼のために飴とグミ、それからいつも愛用している枕がボスンと入っている。
やっぱり備え付けの枕では落ち着かないんだそう。
時間外出入り口に入る前に、なんだか空が明るい気がして顔を上げる。
目の前の、ベンチやテーブルが点々と落ちているちょっとした遊歩道に、広い敷地を利用した駐車場。
周りのマンション群に囲まれてぽっかりと空いたそこからは、昼間のうろこ雲より厚みを増したひつじ雲。それに護られるようにして虹色の光をこちらに注いでくる大きな丸い月が在った。
一本道を外れれば車やバスや人も多い大通り。ショッピングモールも賑わうような場所から目と鼻の先にあるのに、そんな病院の宵は少し不安になるくらい静かなものだった。
そして静かなのに目にうるさいくらいの月明かりは美しくて妖しくて。気持ちが吸い込まれそうになる前に、わたしは逃げるように院内に入った。
なおさんのベッドテーブルは早くも混雑していて、院内のコンビニで買ったチョコとかパンとか、充電器とか。
まあそうだよね、いつも夕ごはんのお米をおかわりするようなひとだ。わたしみたいに臓器を患っているわけではないし、お腹すくよね。
病室は静かで、他の患者さんの邪魔にならないように、追加の荷物を渡してから団らんルームみたいなところに連れ立った。
面会時間は15分。
団らんルームは病室と違って明るくて、テレビも大きくて、飲み物やお菓子類の自販機が点々としていた。
飾り気のないテーブルと椅子に向かい合わせに座って、どちらからともなく互いの手をとる。おねむの時の猫のように温々の手。少しかさついてる、わたしより大きな手。
「今日は色々ごめんね」
「全然!」
「体調大丈夫?」
「うん、今のところはね」
こんなときでもわたしの身体を心配する夫。大変なのはあなたのほうじゃないか。
閉鎖感のあるスペースとカーテン、落ち着かない知らない人の気配。いつもより狭いベッド、病院食。
どことなく張り詰める、暗く湿度の高い緊張感。
入院初日で複数の検査と治療もあって、一気にやつれたような気がした。なおさんの目元に影が入る。
明日の予定とか、シャワー室の設備とか、なんか適当な話をする。
他は別に良かった。
話したいことはたくさんあるけれど、会話はメッセージアプリでできるもの。
今は短く貴重な面会時間を大事に大事に過ごしたくて、できるだけわたしは夫の手に触れていた。
15分なんて夫の仕事でいうとほんの小休憩くらいだ。
時間がきて、出入り口まで送ると言ってくれたので、一緒にエレベーターに乗る。一階にある院内コンビニはまだやっていて、おねだりされたのでしかたなくクリームパンとチョコのお菓子を買って渡した。
「あんまり食べ過ぎちゃダメだよ」
病院食だけでも一食に必要なカロリーは摂っているのだし。
なおさんは軽く返事をしたけれど、聞いているんだかいないんだか。
外に出ると、ひつじ雲に見え隠れする月の輪郭はおぼろげで。それでも雲によって光が不思議な形で広がっていて妙に明るい。
「気をつけてね」
パンとお菓子を片手に、空いた手をひらひら振ってくれるなおさん。
「おやすみ」
そんな別れ際に口から出た言葉は挨拶というよりも、祈りに近いものがあった。
慣れないところでも、あなたがどうかゆっくり休めるように。
明日の満月は今年いちのスーパームーンだそうで、だから今夜もこんなに近いのか。
満月は引力を増す。体調を崩したり、気持ちが落ち着かなくなる人が多い要員のひとつにも考えられているそうな。
夫と会うたった15分の為だけに、往復1時間かけて自転車の車輪を押し回す。
誰がどう思おうと、わたしはこれが最近の中でいちばん有意義な時間だと思った。
途中で渡った川の橋で、叢雲と月のスポットライトを浴びたボラが跳ねるのを横目に考える。
今彼は、なんの動画を見てるんだろう。
新しく買ったルアーに関するものかな、最近大きな試合があった格闘技の見逃し配信かな、連載が再開した彼が大好きな漫画の考察動画かな。
それともショート動画をなんとなく流し続けているんだろうか。
我が家にもうすぐ着く、見慣れた住宅地を通ったとき。どこからともなく秋といえばの香りが鼻を通った。
甘くて切ない金木犀のそれだった。ああやっとこの辺りの金木犀も花を咲かせ始めたんだなと。
少し嬉しくなって自転車を止めたくなったけれど、そのまま漕ぎ続ける。きっとまたどこかの道であの香りには出逢えるのだから。
「おかえり母ちゃん!ごはんは?」
「ただいままる。あなたのごはんはまだやで」
「ちがうよ!……母ちゃん、ちゃんとごはん食べる?」
「……どうやろねぇ」
猫はいつもと少し空気が違う事を何となく読んでいるのか、わたしが帰宅してからも大人しかった。いいんだよ、見てる前でなら暴れてくれたって。
寝室に一緒に行って、当たり前のように布団を2つセットして、まるのごはんの時間まで戯れる。
やっぱり暴れなかった。
独りだと何を食べる気も起こらないんだけれど、夫が心配するからと何度も頭の中で自身に訴えて、やっと食べたのは23:00過ぎ。人参のラペとゆでたまごひとつ。これが限界。
がんばって食べたんだよ、夫だって出されたブロッコリーがんばって飲み込んだんだもん。
キッチン横の窓辺に置きっぱなしのあのひとの煙草とZIPPO。院内はもちろん禁煙ですからね。
キン、と蓋を開けて、朝出かける寸前に彼が使った残り香を肺いっぱいに入れ込む。
変態と思わないでほしい、好きな子のリコーダーを吹いたりするタイプの人とは違うから。
どちらかといえば、これや石油の残り香が昔から環境的に馴染みがあって、落ち着くんだ。
明日は昼食後、明るくぽかぽかした敷地内の遊歩道を一緒に歩こうか。
なおさんがプレゼントしてくれた、あのかわいい秋冬にぴったりなローファーでデートできたらいいな。
でも天気が心配だから、本スエードのローファーを履いていくならやっぱり、雨マークになっていない今日と同じ時間帯になるのかな。
あの【15分/1日】の時間を、あなたとどう過ごそうか。
家には釣り道具、VANSの靴たち。彼しか飲まない炭酸飲料、握力も腕力もないわたしには持てないダンベル。
ちょっと溜め込んでしまっている週刊漫画。そろそろ数冊をヒモでくくらないと。
たぶん外では高くのぼった月があのひつじたちを幾つも連れて、未だ妖しい光で何かを照らしているんだろう。
夫の気配がたくさんある家で、わたしは簡単に淹れたカフェインレスのブラックを飲みながら、明日着る、秋のはじまりのコーディネートをずっと考えている。
彼が居ない日の晩のこと。
『ひつじ雲の月夜の下で』
ちゃんと息をしている秋を、どうやってあなたと楽しもう。
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