うつと食と靴と約束
【うつ】と【食】の関係性は、個人の身心や環境によって症状が様々で。ごはんが喉を通らず痩せる人もいるし、薬の副作用で太る人もいる。
わたしの場合はうつ以前。20歳そこそこで患った摂食障害から始まっている。
拒食と過食を繰り返す日々、いつからか「誰かと一緒じゃないとまともに食べられない」体になってズドンと痩せた。
理解してくれるひと達はちゃんといて、誘いに付き合ってくれたり向こうから声をかけてくれたりして、一緒にご飯を食べてくれたことへは今でも感謝している。
それがわたしにとっての大切な生命線で、重要な時間だった。
そんな障害がある分、誰かと食べるご飯が一層美味しく感じたのは言うまでもなくて。
夫になる前からなおさんは、お昼休憩時にほぼ何も食べないわたしを心配して、タイミングが合えばよく会いに来てくれて一緒に何かを食べた。
職場が近いとはいえ、歩いて10分弱。わたしにご飯を食べさせるためだけに貴重な休憩時間を使って会いに来てくれたんだ。
お付き合いをする前から、彼は特別優しいひとだった。
そしてわたしは太るのだ。
入籍してから、毎日の夜ご飯の時間がとても大切な夫婦のコミュニケーションを生んでくれた。
共働きだったのはほんの数ヶ月、地下鉄の駅で合流して帰る。人がとにかくドバドバ流れてくる駅だから、トロいわたしを保護するみたいに手を繋いでくれた。
席がひとつ空いていたら、当たり前のようにわたしを座らせる。彼の鞄をわたしが膝に置く。
「今日何食べようねぇ」
「疲れてるだろうからコンビニで買お」
夜景の見えない地下線路の中で、疲労と揺れに負けてうとうとしながら。最寄り駅の名を耳にして、慌てて鉄の箱から出るんだ。
コンビニも遅い時間だと品数が少なくて、食べたいものが見つからない。
そうしたらカップ麺にするか、思い切って深夜もやっているラーメン屋さんへ車を出してくれる。
カップ麺でもラーメンでもわたしはたくさん食べて平らげる。嬉しかったし楽しかったし、彼と一緒だったから。
【うつ】になってからも、夕飯を一緒に食べることは大切にしたかった。
だってわたしの生命線なんだから。
なおさんも解ってくれていて、それから「一緒に食べるのが楽しい」とも言ってくれて。
わたしが居ると居ないとでは、同じカップ麺やコンビニ弁当や牛丼でも全然違うんだとよく言っていた。
気付いたら体重が増えている。
スケールが壊れたのかなと思って買い直したほどだった。
もともと痩せても顎下のたぷたぷはあったし、骨格もしっかりしているほう。服を着ると分かりづらいんだけれど、確かにボトムのウエストとお尻はきつくなっていた。
症状が悪化してくると、食べる量は減っていく。だけど体重は増える。
向精神薬を投与していると、なんやかんやな理由でそうなってしまうことは珍しくない。
引きこもりで運動もしないし、やるとしたら軽い家事。
ほとんどが起き上がれない日々で、前夜から翌日の夜8時までトイレにすら行けなかったことも。
どうにかこうにかして治療を続けて少しずつ良い方向へ向き出していたとき、胃を殺った。
機能性ディスペプシアだ。
外傷がないから手のつけようがなくて、自身に合う薬を探りながら投薬で治療していく。
まるで「胃のうつ病」だなと思った。
ここから、わたしはさらに食べ物を受け付けなくなる。
食べるけどすぐに胃痛。激痛。焼かれるようなバリバリとした痺れと痛みでのたうち回る。
痛み止めを飲むんだけれど、そもそも胃が正常に機能しない病気なのだから、効果がでてくるのが遅くて耐えきれずに気絶したりしていた。
久しぶりに「食べるのが怖い」と思った。
胃の働きが止まるから、ひとくちふたくちでお腹いっぱい。食前の漢方薬2種を飲むだけでも十分なくらいだ。
頼りになったのは朝の薬を飲むために摂るようになったラッシーと、ひとくちサイズの蒟蒻ゼリー。
夕飯も夫が帰ってきてから一緒に食べるんだけれど、すごく少なく盛り付けたわたしの分も結局彼がその半分食べてくれたりして、食べることへの怖さは未だに健在だ。
度々鎮痛剤が必要なんだけれど、こんなでもほんの少しずつ良くなってはいる、気はするんだ。
ただ、体重はみるみる落ちていった。
自分では顔以外はわからないけれど、なおさんにはわかるらしい。見た目の変化が。
顔だけじゃなく体つきも変だなと感じたのは、お風呂でシャワーを浴びていたとき。
あれ、この椅子こんなに硬かったっけ?
浴室用のくぼんだ形の椅子にお尻の骨がゴリゴリ当たる。普通に痛い。
「なおさん、わたし痩せたかもしれん」
「やから痩せてるんやって」
そんな会話を面白おかしく何度もした。少し前まできつくて履けなくなっていたデニムが突然履けるようになって、体重が増えてから買った流行りのタックパンツとかはぶっかぶかになる。
正直、戻っただけ。
幸せ太り+向精神薬の影響で重くなっていたものが、新しく発症した機能障害で元の鞘。
だけれど、以前よりも体力が馬鹿みたいに落ちていた。そりゃそうよ、食からの栄養が摂れないんだもの。
心療内科での採血で何かのコレステロールがだだ下がりになって、数値を上げるためには「歩け」と言われた。
今は無茶しない程度に体力づくりをしているところで、30分だけ散歩をしたり。
引きこもりが激しかった頃に、少しでも外の景色を楽しんでくれたら……と、なおさんが買ってくれたSAUCONYのスニーカーが、今とても活躍している。
家事も窓のサンを久しぶりに拭くとか、衣替えを少しずつするとか。とにかく体を無理なく動かすことを意識して過ごしてみたり、雨の日はゆっくり体操をしたり。
あんなにあっという間に削られた体重も体力も、回復するにはその何倍、何十倍の忍耐と時間を要するのは覚悟していた。
それでも。
外を歩いて目に入る景色を楽しんで、涼しくなった朝の空気を肺いっぱいに吸うのはわたしにとってプラスだった。
食べる量は戻らないけれど、相変わらずなおさんとの夕食は楽しいし、大切な生命線。
漢方に即効性はないから、辛抱強く飲み続けてみよう。
きっと少しずつ良くなるから。大丈夫だから。
ようやくようやく再び頑張る方向に意志が行きかけたとき、
なおさんがダウンしたのだ。
……週が明けたら、いよいよ夫の入院がはじまる。
検査と治療、両方色々やるから数日間。
なおさんは自分が一番不安なはずなのに、わたしのことを真っ先に気にかける。
「ご飯はちゃんと食べてね」
「誰かをうちに誘ったりしてもいいから、なんとか食べてほしい」
そうだ、〇〇さんを呼んだら?
そんなふうに度々案じてくれるのだ。
なおさんは知っているから。
わたしの生きる術が自身だということ。
自分がいないたったの3泊が、軟弱な妻にとっては恐ろしく長い時間になるだろうということ。
そんな弱々な妻が独りで食事を摂るのが、どれほど苦痛かということ。
入院が決まってすぐの休日。
楽しいデートの帰り、わたしは車の中で突然ぼろぼろ涙を落とす。
【うつ】の症状でわたしがよく起こすもののひとつで、本当になんの脈絡もなく涙が止まらなくなるんだ。着ていた五分袖のスウェットにボタボタと大粒のしみが滲んで、たちまち雨に濡れたみたいになる。
後から感情か追いついてきて、声を出して泣く。
「俺から離れることは絶対にない、って言ってたやんかぁ……!」
なんて理不尽な文句を、子供みたいにふやふや言いながら泣く。こんなときくらい楽しく終わりたいのに。
なおさんは涙と鼻水が止まらないわたしを見て、戸惑いつつ優しく笑うんだ。
「物理的には離れるけど、離れんから」
嬉しくて悲しくて怖くてしかたない。
家に着いてもまだ泣いてるわたしを、お留守番してくれていた猫が「母ちゃんまたなの?泣き虫やね」みたいに見上げてくる。かわいい。
「大丈夫だから。大丈夫だからね」
言いながらぎゅーって抱きしめてくれる夫。わたしのぐしゃぐしゃな顔のせいでそっちの服も汚れるのに、構わずわたしが落ち着くまでそうしてくれる。
「大丈夫だから。毎日会いに来て」
わたしをなだめるみたいに、自身に言い聞かせるように「大丈夫」を繰り返すなおさんをやっと抱きしめ返せたのは、突発的な症状が治まった頃だった。
満身創痍夫婦が変わらなきゃいけないターニングポイント、なのかもしれない。
入院は、くまなく夫の不調の原因を調べてくれて大きな治療も予定している。治療の方向が定まるかもしれないとても良い機会なんだ。
不安でしかたなくても、やっぱりあなたはわたしの生きる糧なんだ。少しずつでも楽になってもらいたい。
入院にあたっての必要そうなものを揃えはじめた。
欲しかったローファーがあった。
VANSの新作で、コロンとしたトゥにスマートな浅めのディテール。チョコレートブラウンみたいなスエード生地と真っ黒なソール。よりメンズライクかつ、尖りすぎないカジュアルなものだった。
スケーター系のスニーカーブランドのローファーは持ったことがなくて、ほぼ一目惚れと好奇心に近い感じだった。
別ブランドやインポートの気になるアイテムをいくつもピックアップして、なおさんに「どれがわたしに似合うと思う?」なんて相談しながら何日もかけて熟考した答えがVANSのそれだった。
決して夫がVANS大好き人間だから、という理由だけで決まったわけじゃなくて、ふたりですっごく悩んで選んだ一足。
これはわたしの誕生日プレゼントの話だ。
なんというタイミングだろう、誕生日は彼が入院する前日。この日からなおさんは休暇を取っていて、病院への手続きやなんやかんやでバタバタするんだ。
なにもおかしい考えではないと思うけれど、己の誕生日のことはきっと二の次三の次になる。
それならせめてと、なおさんは数日前にその靴をくれた。
ダークチョコ色のこっくりとしたブラウンで、ふんわり柔らかいスエードのコインローファー。
クッションが柔らかい。黒のソールも手間と技術が要るバルカナイズドでしなやかな仕上がり。
見た目の重厚感と動きやすさとカジュアルのミキシング、こだわった素材、絶妙な色合い。
………………っかわいい。かわいい。
わたしは急に語彙力を無くしながら、なおさんにかわいいとありがとうを連呼。なおさんはそんな妻を面白そうに、それから優しげに見守りながら「かわいいね」と返してくれていた。
別に大きな手術をするわけじゃない。
何ヶ月も離れるわけでは全然ないし、コロナ流行初期と違って、ほんの15分だけれど面会時間も設けてくれるんだ。
病院の場所は、自転車でなんとか行けそうな距離。
命に関わるものじゃない。
だけどもしかしたら一生に関わってくることかもしれない。
不安でまた泣きそうになる。
わたしが働けないから、余計になおさんが身体を酷使してしまってこんな事態になったんじゃないか、なんて思ってしまう。
そうじゃなかったとしても、「関係ない」と彼が言い切ったとしても、考えてしまうものなんだよ。
VANSの箱にローファーを乗せて撮影する。
ずっと眺めていたいけれど、息子がじゃれついてきてしまったら洒落にならないので、靴用の湿気取りを中に入れてからシューズボックスへ。
いつもいつも飽和状態になる靴たちを最近また整えた。そうして一箇所だけ空いたスペースにローファーが収まる。
「これからよろしくね」
そっと告げてから、扉を締めた。
この秋冬、大切に履き倒そうと思った。
心細いのはきっと夫のほうが上だ。
わたしのこと、猫のこと。仕事のこと、お店のスタッフや力を貸してくれる他店の人たちのこと。
自身のこと。今この体はどうなっているのか、ちゃんと病名と治療法は見つかるのか。
わたしが彼より不安になってどうする。
「大丈夫だからね」と言うのはわたしの口からでなければいけないのに。
猫だって、大好きな父ちゃんがいない数日落ち着かないだろうに。
「まるのこと、おねがいね」
なおさんがわたしを優しく鼓舞してくれる。生きなければいけない理由を思い出させてくれる。
「まる〜、父ちゃんいなくなっちゃう」
「言い方、」
彼が笑う。笑うあなたがだいすき。
「寂しくなったら母ちゃんと一緒に寝てくれる?」
「寂しいのは母ちゃんやろ。ぼくはぼくの気分のままに寝る!」
ですよね~と息をつきながら、息子の眉間を撫でた。
不甲斐ない妻だけど、
なんて言葉にすれば、なおさんもまるもちょっと怒るから、これは涙と一緒に引っ込めて。
どんなときも一途に家族を大切に思ってくれる夫に、現状非力なわたしができること。
まると家と自分を護ること。
「このローファー履いて、会いに行くね」
あなたに告げた約束事をまもること。
『うつと食と靴と約束』
新しい靴が、またわたしを動かしてくれる。