ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』東江一紀訳、作品社
ある日のツイッターに、「けっきょく何者にもなれなかった、ごく平凡な男の話である」と簡単な紹介文が書いてあって、けっきょく何者にもなれないと確定している平凡な自分にぴったりではと思って読んでみた。真に平凡な人間を小説に描いてどんないい小説にできるのか、興味があった。
でも、これはそんなに平凡な男ではないと読み終わって感じた。あるいは、平凡な人生というものにはあまりにいろんな出来事が詰まっている、というべきなのかもしれない。
主人公のストーナーは、貧しい農家に生まれたが、運よくミズーリ大学(というわりと普通の大学)に進むことができた。父を助けるべく最初は農学部に入ったはずなのに、文学との(わけのわからない)衝撃の出会いがあって、両親に申し訳なく思いながらこっそりと文学専攻に変えてしまい、大学卒業のときまでそれを言えないでいる。大学時代は親戚の家で同居させてもらうが、体のいい労働力としてこき使われ、それでも狭い部屋で空いた時間には勉強を続ける。そして大学院に進み、ちょっと授業を受け持ったりしながら、やがて常勤職に就く。教員としてのストーナーはそれなりに情熱をもって教える(彼の専門はすごく地味な領域だ)ものの、敵対する男が上司となってしまい、長いこといやがらせを受ける。
一方、プライベートでは、女性とつきあった経験もない彼が一目惚れしてプロポーズした相手、イーディスは残念ながらあまりよい妻ではなく、結婚生活は辛いものになる。そのうちに娘が生まれ、それなりに娘を愛したり、そのうちに彼の魅力を認めてくれる女性と不倫をしたり、それがばれて相手が去っていったり、両親は不遇のまま亡くなったり。研究者であり、学問にそれなりの情熱を持っているのに、書きたかった研究書はけっきょく書けないままで終わる。とまぁ、「これが平凡な人生です」と言われればそうなのかもしれないが、そのときそのときで彼なりの相当な波乱を経験しているのだ。「平凡」ってこういうことなのだろうか、とあらためて考えてしまった。
一番痛切に感じたのは妻との関係だ。妻はけっして悪い人間ではなく、おそらく育ち方になんらかの問題があったのだろうが、結婚するときはいい妻になろうと思っていたようだ。それ以後も、夫との性的なすれ違いや自分の存在意義への疑問など、彼女なりの葛藤があったに違いない。夫からは自分中心な性格に見えたかもしれないが、それは夫から見た彼女であって、彼女から見た結婚生活の問題はまた違ったものだっただろう。悲しいと思ったのは、最初はささいなことに思えた夫婦問題も、そのままにしているとなかなか修復が難しく、気に病みながらも日々の暮らしがあってちゃんと向き合えないということだ。そのうちに時間はたち、なんと彼の人生は終わってしまうのだ。「平凡な人生」とはなんと悲しく辛いものだろう。
そして「訳者あとがきに代えて」では、訳者にも人生の物語があったことが最後に示される。
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