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「人生における優先度」を考えてみると、意外と生きるって簡単だ

双極性障害歴8年、みみくもです。

この精神疾患について回る邪魔なもの、【希死念慮】。
なくそうと思ってもなくならない、「考えなければいいじゃん」なんて言われてもお前にはわからないよ!と叫びたくなる、邪魔~な邪魔~な思考です。

希死念慮を少しでも減らすために、私が心の整理をするときに使う「人生における優先度」について今回はさらっとまとめます。

人生はやりたいことがたくさんある

双極性障害になってみて、劣等感や罪悪感、そして希死念慮に至る要因となりやすい考え・出来事は「みんなはちゃんとできているのに、どうして私はできないんだろう」ということ。

具体的に言えば、”毎日の通勤・通学”。
これだけでも、私からすれば「なんでできるの?」と思う。気分にむらがありすぎる私は、「やるぞ!」と思える日の倍の数ほど「何もしたくない、どうでもいい」という暗くて重い気持ちに襲われる。

・どうしてコンスタントに日常をこなせるの?
・嫌なことがあってもさらっと流せるの?
・「世間ってそういうものなんだよ」って意味がわからない…

「やってみたい」「楽しそう」と思う前向きな気持ちがあって、理想の自分があるのは病人だって同じ。ただそこに向かうまでにまっすぐ歩けるか、歩き方すら忘れてしまう時があって気がついたら夜になっているか、その違いだと感じた。

そこで生まれるのは、「私はどうしてやりたいことすらできないの?」という劣等感の塊。それが自然と、そうなる”べき”だったかのように「死にたい」に繋がってしまうのだ。

私にできること・他の人にできること

誰にだって、得意不得意はある。これは当たり前。
いくら頭が良いと一言でまとめても、どのベクトルに頭の良さを発揮できるかは人によって違う。

コミュニケーションが抜群に上手な人だとしても、高度な計算式が解けるとは限らない。スパコン並みのプログラミングができたとしても、人の気持ちを理解して社会的に活躍できる人間になるとは限らない。

劣等感を抱く原因になる【他人と自分との比較】は、やめようと思ってもなかなかやめられない。

なぜなら、「社会的に自分が地位(生きていてもいいという免罪符・承認欲求)を得るには、他人と同じもしくは上でなければいけない」という謎の固定概念がこびりついているから。

これほど邪魔なものはない。でもぼーっと考え直してみると、世にいる優秀な人間たちは、病人すべての苦しみを理解できているわけではない。すべての思考を理解し、シチュエーションを体験し、全知全能なわけではない。

私には病人ならではの知識があり、体験があり、対策法を知っている。知らない人だって多い。一見すべてにおいて成功している人も、知らないことばかりの中で生きている。

他人にできて自分にできないことがある分、同じ数だけ(は言いすぎかもしれないが)自分にできて他人にできないことが存在しているのだ。

「優先できる」と「優先したい」は違う

診断が下って8年、それより遡れば6年ほど、しんどいしんどいと泣きながら生活してきた私。
倒産する心配のない定年まで安泰な職に就き、結婚をし、家を建て、周りから見れば幸せな生活だったろう。けど、結局今手元にそれらは一つも残っていないのが現実だ。

それでも死にきれなかった私は、今二度目の結婚をし、仕事も完全リモートに、収入は減ったが何故だか前よりも希死念慮が減った。

それはひとえに、「人生における優先度」なるものを考えたからである。

何を優先するかはもちろんだが人それぞれだ。一財をなすことを最優先として身を粉にして働く者もいれば、金など要らないと言い休息を至高として生きる者もいる。

ちなみに、最優先を決めることは大切だが、別にそれだけを重んじるわけではないし、いくつ優先するものを決めてもいい。そこは自由だ。だって自分の人生なんだから。

ただ気を付けてほしいのは、「優先したい」と思って抱え込んだものが、「本当に両手に収まる分だけの量なのかどうか」ということ。

ここで手から零れ落ちたら、結局は「どうして私はできないんだろう」に逆もどりだ。意味がない。

「最優先」と決めると同時に「最低限」も決める。
自分を過大評価しない。
普段「私なんて…」と言っていることは無駄ではなく、むしろ優先するものの数を決める時にこそ使ってほしい謙虚な考えだ。

私の「人生における優先度」の順番

そこで、私は優先度を決めた。何もかもを手に入れようとすると、途方もなく自分のことが嫌いになり、そのうちに好きな人にまで当たり散らして結局何もかもをなくすことになるからだ。

私の優先するものは以下の通り。シンプルだ。

①夫と過ごす時間
②生活するためと本を買うためのお金

まぁ、正直他にもたくさんあるにはある。肌をきれいにしたいとか、貯金をしたいとか、あれやこれやと。

もちろんそれらに使う時間やお金も多少は必要だし、使っていることは事実だが、優先するレベルが違う。段違いだ。

①夫と過ごす時間

これだけは譲れないものを挙げろと言われたら、むしろこれしか浮かばない。迷う余地はない。

夫は月曜日が定休日で、それ以外に連休は正月の3日間だけ。お祝い事があるからと言って仕事を早く切り上げたり休んだりなんてしない。

そのため、私は月曜日に休みをとれる仕事しかやっていない。「土日祝が休みの安定した仕事に就いて、たまの月曜祝日に一緒に過ごせばいい」「どうせ同じ家にいるんだから、休みが合わなくてもそこまで困らないだろう」…などということをよく言われるし、実際私自身も考えたことはある。

けど、私は夫と過ごす時間が一番好きで、他の時間は言ってしまえばただの暇つぶしでしかない。楽しめるのは、夫との時間だ。

確かに休日がたまに被れば貴重度も高まり、何かイベントに行こうかと胸を躍らせるかもしれない。けれど、その1日のために私はいったい何日の「夫と過ごせるはずだった月曜日」を仕事に使わなくてはいけないのだろう?

そして、土日に休ませてくれる仕事をしたところで、夫が忙しく働いている土日に何を楽しめと言うのだろう?

そんなわけで、私は夫が一番優先だ。お金の使い方については、夫と過ごす休日(映画や小旅行も含む)に使う。そのために稼いでるのだから。

②生活するためと本を買うためのお金

2番目は、生活のお金だ。もちろん、夫と過ごす時間を優先する上でお金が最低限必要なので、その分は①の方に入っていると考えて良いだろう。ここでいうお金は、それ以外のお金だ。

ここでいう生活とは、「暇だと感じない最低限の生活」を意味している。例えば、サブスクリプション。もしくは、そこまでいかなくとも、「インターネットが使える環境」と言ったところだろうか。まぁこれがなくては仕事にならないので当然と言えば当然だ。

それと本。主にkindleだが、本は毎月何冊も好きな本を買っている。新刊だったり、気になって衝動買いしたりといろいろだ。本は昔から好きで、何度も読み返しては泣いたり笑ったりしている。安定剤のようなものだ。

まとめると私は、「夫と過ごすため」に働いて生きて、その生きるという行為を長続きさせるための暇つぶしとして「生活費や娯楽費を確保」するという優先度を決めて生きていることになる。

「優先するもの」に制限はない

先ほど述べたもの以外にも、メイクやファッションといった外見的な要素にもお金は使っている。なぜなら「夫と過ごす時間」にそれらがある程度そろっていると、より楽しいと思うからだ。

やりたいことはたくさんある、欲しいものはたくさんある、けれどそれを突き詰めていくと、意外と少ない願望をかなえるためであることがわかったりする。私の場合は、2つで、しかももっと言えば①だけで成り立ってしまう生活だからだ。

優先度を決めて生活を縛りすぎると、依存やストレスに繋がる。そのため、優先するものは「〇〇でなくてはいけない」といった「こうあるべき」思考そのものを捨てておく必要がある。

結局のところ、自分自身に「何のためにやってるの?」「何が嬉しいの?」と問いかけて見たときに、なんという答えが出るかなのだ。

すぐに答えは出ないだろう。欲は多い方が生きやすい人もいるし、それは決して悪ではないのだから。

ただ、「こうあるべき」「みんなそうだから」という枠組みで生きていて苦しさを感じている人には、「根本的な優先度」を見つめてみてほしい、という話なだけ。

意外と単純で、そして単純だと言うことを知ると、意外と世の中は生きやすい。人生はイージーで、重たいものなんかではないと思えてくるものだ。

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