見出し画像

いま在日イスラム教徒が急増しているのは、日本の支配者に「アラブの血」が流れているからなのか。

今回は、「ヤジロウ」から考えていきたいと思います。

ヤジロウ(弥次郎、1511年永正8年)頃? - 1550年天文19年)頃?)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される人物[1]

ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児島)の出身である[2]。彼自身やザビエルの書簡によれば、若い頃に殺人を犯し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。その罪を告白するために、ザビエルを訪ねたという[3]

ヤジロウ - Wikipedia


薩摩出身の「ヤジロウ」は殺人を犯したため、「マラッカ」に逃れたということです。

この「ヤジロウ」とは真のキリスト教徒ではなく、悪魔教である人肉食信仰「クロ宗」の信者であった可能性が、RAPT理論によって解明されています。

イエズス会と真言密教と浄土真宗と人肉食信仰「クロ宗」の奇妙な接点。フランシスコ・ザビエルを日本に招いた「ヤジロウ」から分かる悪魔教の現実。


「ヤジロウ」の僧名として「岩屋梓梁」という名前が見つかりました。

岩屋梓梁のプロフィール
弥次郎は明応6年(1497年~1556年)正月、薩摩国伊集院神殿に生まれ、俗称を橋口弥次郎左右衛門兼清、僧名を岩屋梓梁と言ったが
背丈十尺(約3メートル)容貌魁偉、頭上右?に 約3寸(約9センチ)の肉腫(角・ツノ・チョン)がおったっていたため、当時の民衆から「岩屋天狗」と異称された。
永正年代末期(1520年代)時の室町幕府を倒して 神仏習合、祭政一致の易断教団政府を樹立し、
古事記等多くの古典を書いて易断政治の思想的根拠を固め、
又、秀吉、家康等多くの英傑を子として残した。 

真光と岩屋梓梁研究顕彰 | むろまっち


「ヤジロウ」は身長が約3mもあり、頭に角(つの)のような肉腫があったため、「岩屋天狗」とも呼ばれていたということです。

室町幕府を倒し、「秀吉」や「家康」は彼の子であるそうです。

さらに「ヤジロウ」が、アラブ系の人物として生まれたという情報もあります。

哈只家(ハシ家)

 西郷隆盛が、心から欽仰、憧憬した岩屋**こと通称ヤジローどん
(俗称、橋口弥次郎左衛門兼清、大天狗岩殿、岩屋天狗とも愛称された)
は、明応六年(一四九七)、薩摩国伊集院で、
波斯(アラブ)ハシ家(王侯哈只家 HAJJI)系の人物として生まれたが、
その人格形成は、当時、琉球、東南アジアをはじめとして、世界的な活躍をしてきた 南九州隼人族の歴史と動容、とくに、伊集院家系 曹洞宗 傑層 石屋真梁禅師の思想と行蔵から重大な影響をうけたから、
ヤジローを理解するためには、まず、南九州 隼人族に関する 往古以来の隠された史実と史識を知っておく必要があるのである。
                (上巻P.196より)

哈只家(ハシ家)


そして聖徳太子の従弟とされる、蜂子皇子も「岩屋梓梁(ヤジロウ)」と同じく、アラブの血を受け継いでいたというのです。

「蜂子皇子」は蘇我馬子から逃れるため、京都府の丹後から山形県に上陸し羽黒山で羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたとされています。

欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。

蜂子皇子 - Wikipedia

蜂子皇子
出典:やまがた庄内観光サイト 羽黒山開山堂 蜂子神社


蜂子皇子(はちこのみこ)と岩:屋:梓:梁に共通する事実は、どちらもアラブの血を受け継いでいたということでありますが、これは、迦楼羅(カルラ)神とも繋がるスサノオの使命的立場であったと推察することができます。

 近代歴史では、大本の出口聖師がその使命を継承し、天命未完成のままに、現代に引き継がれています。

 岩:屋:梓:梁は、蜂子皇子の使命を引き継いだ使命者でありますが、岩:屋:梓:梁が全国規模で展開した弥勒下生運動については、近代日本史から全て抹消された史実があり、歴史を封印するために長い年月に渡り鎖国をしてまでも歴史を改ざんし、隠蔽しなければならなかった幕府の意向が隠されています。

 岩:屋:梓:梁の子孫と言われた西郷隆盛は、岩:屋:梓:梁を心から敬愛した人物でありましたが、保存していた岩:屋:梓:梁の歴史的な記録は、明治政府時代に全て抹殺されたといわれています。     

http://www.wao.jpn.org/wao/message1202.shtml#m09 より引用

鎖国をしてまでも


上記によると、蜂子皇子の使命を引き継いだのが「ヤジロウ」で、その後大本教の出口王仁三郎に継承され、「ヤジロウ」が展開した弥勒下生運動は近代日本史から抹消されたということです。

蜂子皇子は蘇我馬子から逃れるため、京都府の丹後から山形県に向かったとのことでしたが、京都府の丹後町に建立されている像は「蜂子皇子」ではなく、「間人皇后・聖徳太子母子像」なのです。

間人皇后・聖徳太子母子像 
出典:京都府観光連盟公式サイト

はしうどこうごうぼしぞう
間人皇后母子像

間人皇后像は高さ3.5m、聖徳太子像は高さ1.5mのブロンズ製の像。母子像の後ろの石柱は、高さが5.5mもあり、飛鳥時代を表現している。中央部が太く、奈良の法隆寺の柱と同じ形になっている。

厩戸王(うまやどのおう)の御母である穴穂部間人(あなほべのはしうど)皇后は蘇我氏と物部氏の争乱を避け、この地に身を寄せられたと伝わります。大和の国へ帰られるにあたり皇后から御名を賜りましたが、口にするのは畏れ多いと考えた村人たちは御退座にちなみ「たいざ」と読むことにしました。この伝説をもとにした母子像が日本海を眺めるように佇んでいます。

間人皇后母子像


この「間人皇后・聖徳太子母子像」の後ろには、ギリシャのパルテノン神殿で有名な「エンタシスの柱」と呼ばれる柱も造型されています。

法隆寺の柱はエンタシスの柱ともいわれており、上の部分と下の部分を徐々に細くなるデザインの柱のことを指します。

これはギリシャ発祥の建築方法ともいわれ、法隆寺のエンタシスの柱には檜が使われています。

このエンタシスという技法を使った柱を下から見上げると、まっすぐに安定しているように見える錯覚が生まれ、ギリシャのパルテノン神殿もこの技法を取り入れています。

法隆寺の回廊の柱の技法とその趣のある光景を堪能しよう!


ここで、「ヤジロウ」や「蜂子皇子」が「アラブ」の血脈を持っている、という話に戻ります。

14世紀に「ヤジロウ」の先祖一行が、シュリーヴィジャヤ王国から琉球へと移住してきたとの説があります。

(十四世紀に、ヤジロウの六代前の先祖 真穂梁夢マホラム(=奇叟異珍)一行が、石屋眞梁禅師の案内によって、シュリーヴィジャヤ王国から琉球に大移動してきたそうです。)

シュリーヴィジャヤ王国


「ヤジロウ」が日本から逃れたという「マラッカ王国」を建国したのが、シュリーヴィジャヤの王族出身者だということです。

 最後にマレー半島の王国、マラッカ王国も覚えましょう。シュリーヴィジャヤの王族出身者が建国したことは知らなくても、マレー人の国家であることは知っておく必要があります。明朝(みん。1368-1644)の時代に鄭和(ていわ。1371-1434?)が行った南海遠征の拠点となったイスラム国家で、16世紀初頭にポルトガルに征服されます。この国家の存在も重要ですね。

謎の海上帝国

「マラッカ」の語源が「隠れた逃亡者」に由来するということは、「ヤジロウ」が逃亡した国、だからなのではないでしょうか。

それどころか「ヤジロウ」の先祖が、「マラッカ王国」を建国した可能性も考えられます。

マラッカ王国(マラッカおうこく、英語: Malacca Sultanate、マレー語: كسلطانن ملايو ملاك Kesultanan Melayu Melaka)は、15世紀から16世紀初頭にかけてマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家1402年 - 1511年)。
「マラッカ」の語源は「隠れた逃亡者」に由来するとされている[4][注釈 1]

マラッカ王家の末裔が治めるジョホール王国で編纂された年代記スジャラ・ムラユ英語版)(Sejarah Melayu)』によると、マラッカ王室はアレクサンドロス大王の血を引き、インドチョーラ王国の王ラジャ・チュランと海の王の娘の間の子を祖とする。

マラッカ王国 - Wikipedia

ここで注目すべき点は、「マラッカ王室」が、「アレクサンドロス大王」の血を引いているという点です。

「ヤジロウ」の先祖が、シュリーヴィジャヤ王国出身であり、シュリーヴィジャヤの王族出身者が「マラッカ王国」を建国し、「ヤジロウ」は「アラブ」の血脈であり、「マラッカ王室」は、「アレクサンドロス大王」の血を引いているというのです。

となると、「アレクサンドロス大王」も「アラブ」の血脈であることが導かれるのではないでしょうか。

「アラブの祖」とは、聖書に登場する「イシュマエル」だと言われています。

アブラハムは、妻サラとの間になかなか子が恵まれなかったため、女奴隷のハガルとの間に子を持ちました。その子が「イシュマエル」です。

イスラム教の創始者マホメット(ムハンマド)は、この「イシュマエル」の子孫であるのです。

これらのことから、「アラブ」の血を引くということが意味するものとは、「イシュマエル」の系譜であるということでもあるのではないでしょうか。

では、「聖徳太子」はどうでしょうか。

「聖徳太子」の生母は、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひと)・間人皇后(はしうどこうごう)でした。

先の「哈只家(ハシ家)」という引用文の中で、『波斯(アラブ)ハシ家(王侯哈只家 HAJJI)系』という表現が出てきました。

一般的に「波斯(ハシ)」とは「ペルシャ」のことだとされていますが、ペルシャの地域は時代が下るとイスラムの地域となっていったため、波斯(ハシ)が「アラブ」の意味に変遷していった可能性は大いに考えられます。

そのため、「聖徳太子」の生母である穴穂部間人(あなほべのはしひと)・間人皇后(はしうどこうごう)の「ハシ」とは、「アラブ」を意味していたと考えられないでしょうか。

京都府の丹後町に建てられている「間人皇后・聖徳太子母子像」とは、「蜂子皇子=聖徳太子」であることが暗示されているとともに、「聖徳太子」が「アラブ」の血脈である可能性も想定できるのです。

さらに「間人皇后・聖徳太子母子像」の後部には、ギリシャ発祥の建築方法ともいわれる「エンタシスの柱」がありました。

「アレキサンダー大王」はマケドニア王国の王であり、マケドニア王国は古代ギリシャ人によって建国されたとされています。

そのため「エンタシスの柱」とは、「聖徳太子」と「アレキサンダー大王」との関連が暗示されているようにも見えます。

「ヤジロウ」は身長が約3mもあり、頭に角(つの)のような肉腫があったとの説がありましたが、神格化された「アレキサンダー大王」にも「角(つの)」が描かれているのです。

羊の神ゼウス・アモンの角をつけた
アレクサンダー大王のテトラドラクマ銀貨。
Theories about Alexander the Great in the Quran- Wikipedia


2018年に発見された、角を持つアレクサンダー大王を描いた7世紀の石碑。
キプロス考古学局発行。Theories about Alexander the Great in the Quran- Wikipedia


古代ギリシャのコイン、例えばアレクサンドロスの後継者リュシマコス(紀元前360年 - 紀元前281年)が鋳造したコインには、頭に特徴的なアモンの角を持つ支配者が描かれている。考古学者は、 2本の角を持つアレクサンドロス大王を描いた古代のコインの様々な種類を多数発見している。[ 34 ] [ 38 ]紀元前4世紀のテトラドラクマ銀貨(「4ドラクマ」)には、 2本の角を持つ神格化されたアレクサンドロスが描かれており、紀元前5世紀のアテネのテトラドラクマ銀貨(女神アテナを描いたもの)に取って代わり、ギリシャ世界で最も広く使用されるコインとなった。アレクサンドロスの征服後、ドラクマはアレクサンドリアプトレマイオス王国を含む中東の多くのヘレニズム王国で使用された。ディルハムとして知られるアラビアの通貨単位は、イスラム以前から現在まで知られており、ドラクマからその名前を受け継いでいる。紀元前2世紀後半には、アラビア半島南東部を統治していたアビエルという名のアラブの支配者によって発行された、羊の角を持つアレクサンダーを描いた銀貨がアラビアの主要な貨幣として使われてい[ 39 ]

2018年、エレニ・プロコピウ博士が率いる発掘調査により、キプロス島のアクロティリ半島にある初期ビザンチン遺跡、カタリマタ・トン・プラコトンで、7世紀の角のあるアレクサンダー大王の図像が発見された。これは「アレクサンダー・ヘラクレイオスの石碑」として知られている。ショーン・アンソニー教授はこれを「コーランと同時代の7世紀ビザンチンの2本の角のあるアレクサンダーの図像」として重要だとみなしている[ 40 ]。

1971年、ウクライナの考古学者BMモゾレフスキーは、多くの財宝を収めた古代スキタイの クルガン(古墳)を発見した。この古墳は紀元前4世紀にポクロフ市の近くに建設され、トフスタ・モヒラ(別名バビナ・モヒラ)という名前が付けられている。この遺跡で発掘された遺物の中には、銀メッキのファレラ(古代ローマの軍事勲章)4枚があった。4枚の勲章のうち2枚は同一のもので、2本の角を持つ髭を生やした男性の頭が描かれており、他の2枚も同一のもので、2本の角を持つ髭を剃った男性の頭が描かれている。最近の説によると、髭を生やした角のある人物はゼウス・アモンであり、髭を剃った人物はアレキサンダー大王に他ならないという。[ 41 ]

アレクサンダーは、古代から、旧約聖書のダニエル書第 8 章の預言でメディアとペルシャの王を倒す角のある人物と同一視されてきました。預言では、ダニエルは2 本の長い角を持つ雄羊の幻を見ており、第 20 節では「あなたが見た 2 本の角のある雄羊は、メディアペルシャの王である」と説明されています。

コーランにおけるアレクサンダー大王に関する説
Theories about Alexander the Great in the Quran- Wikipedia

この「角(つの)」も、「ヤジロウ」が「アレキサンダー大王」の系譜であることを暗示しているのかも知れません。

「鄭和(ていわ)」という人物も、『波斯(アラブ)ハシ家(王侯哈只家 HAJJI)系の人物』であるようです。

哈只(ハッジ)

・鄭和の父と祖父は 聖地メッカへ巡礼に行っており ハッジ(哈只)と呼ばれている。
その為に 鄭和の父は 馬哈只という名前のようだ。

・馬三保、すなわち後の鄭和は、馬哈只の子として 雲南でムスリム(イスラム教徒)として生まれた。
姓の馬は 預言者ムハンマドの子孫であることを示し、父の名はイスラム教の聖地マッカ(メッカ)への巡礼者に与えられる 尊称ハッジに由来する。

・彼は雲南出身の回教徒で,もともとの姓は馬であった.
馬姓は 回民が イスラム名を漢人風の姓に変える場合によく用いた.
これは ムハンマドの音写が 馬だからである.

哈只(ハッジ)


ここで注目すべき点は、「馬」という姓は預言者ムハンマド(マホメット)の子孫であることを示し、哈只(ハッジ)とはイスラム教の聖地「メッカ」への巡礼者に与えられる 尊称のことだという点です。

「ハッジ」の音から思い起こされるのが、「蜂(ハチ)」であり「蜂子皇子」で、さらに「馬」と言えば「聖徳太子」こと厩戸皇子(うまやとのおうじ)です。

これらのことから「聖徳太子」が、預言者ムハンマド(アラブ)の血脈である可能性が高くなってきました。

しかしながら現代の日本の支配者層の中で、「聖徳太子」の子孫だと言われている人物は特に思い当たりません。

そこで注目すべきは、「ヤジロウ」こと「岩屋梓梁」のプロフィールに書かれていた「秀吉、家康」等が彼の子である、ということです。

「豊臣秀吉」は、RAPT理論の記事にも書かれているように、「八(ハチ)の者」と呼ばれていました。

RAPT×読者対談〈第122弾〉現代日本の支配構造は、安土桃山時代と全く同じ。


その「豊臣秀吉」のエピソードの中で、次のようなものを見つけました。

 慶長3(1598)年8月18日、大坂城で闘病していた豊臣秀吉が62歳で逝った。

 前年1月以来、秀吉の命によって日本中の武将たちは、徳川家康などごく一部を除いて、第二次朝鮮出兵(「慶長の役」)に出払っていたし、秀吉の死はその撤退が終わるまでは極秘機密となり、箝口令(かんこうれい)が敷かれることになった。

 その結果、内々での仏事が営まれただけで「黄金太閤」そして「天下人」秀吉にふさわしい葬儀などは行なわれないままに終わった。しかし水面下では秀吉の遺言を果たすべく、朝廷との交渉が始まっていた。秀吉は「神」になるつもりだったのだ。問題は、秀吉が熱望した「新八幡(いまはちまん)」という神号だった。

豊臣秀吉は「ミイラ」になっていた!? 天下人の「悲惨すぎる末路」 お墓も廃墟になり…


「豊臣秀吉」は、生前「新八幡(いまはちまん)」という神になることを望んでいた、というのです。

「ヤジロウ」は、八幡(ばはん)という海賊であったとの説があります。

ヤジロウが以前何をしていたのかは不明確であるが、フロイスの『日本史』では八幡(海賊)であったと書かれており[6]、海賊や貿易など海に関わる仕事だったと考えられている。

ヤジロウ - Wikipedia


徳川家康にも、「八」に関連付けられたエピソードが見つかりました。

鷹狩作りが家康の趣味として特に有名であるが、他にも非常に多くの趣味があった。
作りは、八味地黄丸など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた[202]

徳川家康 - Wikipedia


「アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)」にも、「蜂(ハチ)」に関する逸話があるのです。

バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、紀元前323年6月10日、32歳の若さで崩御した。

アレクサンドロス3世 - Wikipedia


これらのことから「八幡」や「八」、「蜂」などで表される「ハチ」とは、「アラブの血」に繋がる暗号のようにも見えます。

「ヤジロウ」と同時代の人物に、「千利休」がいます。

幼名は田中与四郎(たなか よしろう、與四郎とも)、のち法名千宗易(せんの そうえき、せん そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)とした。

和泉国商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。

千利休 - Wikipedia


「千利休」の幼名は田中与四郎で、生家の屋号は「魚屋(ととや)」であったということです。

「千利休」が生まれた、大阪府堺市にある「開口神社(あぐちじんじゃ)」の境内には念仏寺が建立されており、その寄進者の中に「千利休」と「魚屋弥次郎」の名が記されていることに着目しました。

天文4年(1535年)には念仏寺の築地修理料として堺南荘の豪商110余名が一人当たり一貫文ずつの銭を寄進しているが、このなかには茶人の武野紹鴎千利休(「せん与四郎」名義)、奈良春日神社春日大社)の石灯籠にも名を残す魚屋弥次郎といった有名人の名も記されている。これら豪商から選ばれた10数人が納屋衆、会合衆となって堺の自治組織の運営に当たり、開口神社の祭礼で重職を勤めたのである。

開口神社 - Wikipedia


「ヤジロウ」は、漢字で「弥次郎」とWikipediaに記載されています。

「千利休」の生家の屋号は「魚屋」で、名は「与四郎」、合わせると「魚屋与四郎」となり「魚屋弥次郎」と酷似しています。

「千利休」と「ヤジロウ」は、ともにキリシタンだったと言われており、「千利休」の生没年は1522年〜1591年、「ヤジロウ」は1511年頃〜1550年頃とされています。

この二人が「兄弟」であった可能性も考えられますが、その旨の記事は一つも見つかりませんでした。

残る可能性は、この二人が同一人物であるということです。

「魚屋弥次郎」という名前、これは千利休である「魚屋与四郎」のことなのではないか、考えられるのです。

「千利休」は商人でもあったため、「貿易船」に乗って「マラッカ」へ行くこともできたでしょうし、「ザビエル」とも「出会う」ことができたのではないでしょうか。

「ヤジロウ」こと「岩屋梓梁」が「千利休」であったとすると、「秀吉」や家康」が「千利休」の子だった可能性が出てきます。

「豊臣秀吉」の継父だとされる人物に、「竹阿弥(ちくあみ」がいます。

竹阿弥(ちくあみ)は、戦国時代の人物。通説では太閤豊臣秀吉(藤吉郎)の生母仲(大政所)の再婚相手(秀吉の継父)で、小一郎(豊臣秀長)と旭(駿河御前)の実父とされている。

また、『尾州志略』では竹阿弥を継父とするものの、秀吉を蜂須賀郷蓮華寺(蓮華院[6])の僧の私生児として実父不明としている[7][8]

他方で、『絵本太閤記』は、『太閤素生記』と『甫庵太閤記』両記の折衷のような内容で、秀吉の実父を弥右衛門と同一人物と考えられる「弥助」として、弥助昌吉という人物とする。ちなみに弥右衛門を弥助とするのは『尾陽雑記』などでも見られる記述である。この弥助は織田家の足軽としてとして戦い、膝口を射られて負傷で働けなくなったために、郷里に戻り、弥助(弥右衛門)が出家して「竹阿弥」と名乗ったとされている[15]。弥助が竹阿弥となったする説は、『豊臣系圖』も同様である[11]

竹阿弥 - Wikipedia


「竹阿弥」が「豊臣秀吉」の実父である、という説もあるようです。

通俗説で父とされる木下弥右衛門[注釈 4]竹阿弥は、足軽または農民同朋衆、さらにはその下の階層ともいわれてはっきりしない。

『朝日物語』『豊臣系図』では一般に継父とされる、信長の同朋衆であった竹阿弥が実父であったとしている[12]

豊臣秀吉 - Wikipedia


この「竹阿弥」という名前から思い起こされるのが、「観阿弥・世阿弥」という能楽師(猿楽師)の親子です。

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? - 嘉吉3年8月8日1443年9月1日)?)は、日本室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。

幼名鬼夜叉(おにやしゃ)、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清

世阿弥 - Wikipedia

「世阿弥」のプロフィールから導き出されるキーワードとは、「猿・鬼・三郎・元清」です。

それでは同じように、「徳川家康」について見てみます。

徳川 家康
幼名は竹千代[7]。幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごし[7]、諱は元服時に今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と改め、通称は当初次郎三郎、元康に改名した際に蔵人佐を用いている[11]

徳川家康 - Wikipedia

「徳川家康」のキーワードとして挙げられるのが、「竹・元信・元康・次郎三郎」です。

これらのキーワードの中で気になったのが、「次郎・三郎」です。

「次郎(ジロウ)」からは、「ヤジロウ」が連想されます。

それでは「三郎」とは何を意味しているのでしょうか。

さぶ‐ろう‥ラウ【三郎】

七福神の一つ、夷(えびす)三郎のこと。

[初出の実例]「ゑびす殿と某とは、一所にあるものなれは、三郎殿といひあはせて、きたりてあるぞ」(出典:虎明本狂言・夷大黒(室町末‐近世初))
出典 精選版 日本国語大辞典

精選版 日本国語大辞典 「三郎」の意味・読み・例文・類語


「三郎」とは、「えびす神」のことが表されているのだと考えられます。

えびす神


七福神である「えびす神」は、赤鯛を持っています。

「赤鯛」とは、日本書紀に「赤女(あかめ)」と書かれています。

「赤女」とは、「あかい女」→「アカイメ」と読むことができますので、赤鯛とは、アケメネス朝ペルシャの隠語なのではないかと考えました。

アケメネス朝の名称は、この家祖であるアケメネスに由来する。
海外の文献では、古代ペルシア語の発音に従ったハカーマニシュ朝か、古典ギリシャ語の発音に従ったアカイメネス朝のどちらかを用いている。

アケメネス朝 - Wikipedia


えびす神は、赤鯛(アケメネス朝ペルシャ)を捕ってご満悦です。

アケメネス朝ペルシャを捕ったのは、誰でしょうか。

マケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)です。

「えびす神=三郎」とは、「アレキサンダー大王」のことが表されている可能性があるのです。

すると「次郎」や「三郎」がプロフィールの中で示されている「世阿弥」や「徳川家康」とは、「ヤジロウ」や「アレキサンダー大王」の系譜であることが暗示されているのだ、とは考えられないでしょうか。

そうなると、「豊臣秀吉」の父とされる「竹阿弥」が「ヤジロウ」である可能性は高くなってきます。

「ヤジロウ」は「弥次郎」、「千利休」は「与四郎」という名前であったことから、「次郎」と「四郎」の間に入るのは「三郎(えびす神)」であり、ここからも「アレキサンダー大王」が導き出されるのです。

これらのことから、「ヤジロウ」とは「千利休」とセットとなることで、「千利休」の出自が判明するよう創作された人物だったのではないか、と考えられるのです。

「蜂子皇子」も「聖徳太子」とセットとなることで、「聖徳太子」の出自が判明するよう創作された人物なのでしょうか。

反対に「蜂子皇子」が実在の人物で、「聖徳太子」が創作された人物なのかも知れません。

いずれにしろ、日本の歴史に登場する重要人物たちが、「アラブ」の血脈である可能性と、「ヤジロウ」や「アレクサンドロス3世」の系譜である可能性がある、ということが導き出されました。

「千利休」や「徳川家康」の系図を見ると、今の日本の皇族と繋がっていることが分かります。

千家 - Wikipedia (千家系図

徳川家康【今上天皇の直系祖先】 | 歴史ディレクトリ


現在、日本のイスラム教徒(ムスリム)人口は約23万人と言われており、急激に増加しています。

日本の支配者層が「アラブ」の系譜である可能性と、日本のイスラム教徒人口の増加とは、関連があるのではないでしょうか。

事実、日本国政府は「イスラム教徒」を優遇する政策を取っていることが、「RAPT理論+α」によって発信されています。


日本各地の保育園でイスラム教徒の子供に『ハラル認証給食』を提供する取り組みが開始「食物アレルギーの子は弁当! ムスリムには対応します! 絶対間違ってる」と批判殺到


茨城県境町と五霞町でイスラム教徒向けのハラール給食の提供を開始「日本の公立教育機関は、政教分離です。なぜイスラム教だけを特別扱いするのですか?」


【岸田内閣】ベジタリアン・ヴィーガン・ムスリムなどの『外国人観光客』の受け入れ環境の整備のため、8000万円の予算を計上


【移民大国・日本】東京の住宅街でモスクに向かうイスラム教徒たちが、交通に支障を来すほどの長蛇の列をつくり物議


【私物国家】岸田総理の就任以来、インドネシア人の国内就労者数が激増 2021年は5万9820人、2023年は12万2028人 総理の実弟はインドネシア人の国内就労支援事業を経営


『この世の中で分からないことは全て分かるまで研究し、祈り求める者となりなさい。』と、RAPTさんは教えてくださっています。


サタンは私たち人間が何もかも分からなくなるようにし、神様は私たち人間が何もかも分かるように導かれる。だから、分からないことは全て分かるまで研究し、祈り求める者となりなさい。


いま世界中で、様々な災害や艱難が起きていますが、それはなぜでしょうか。



神様がこの世を裁いているのは、人々に自分たちの限界を見せつけ、「神を求め真理を求めるか、それとも絶望して死ぬか」という選択肢を突きつけるためだ。


『真理と愛』を学ぶことの重要性も、RAPTさんは教えてくださっています。


真理はサタンを滅ぼすことができるが、非真理はサタンを滅ぼせない。真理にはサタンに勝利する力があるが、非真理にはサタンに勝利する力がない。


愛と真理を豊かに携えて生きるなら、それだけで心が満たされ、ありとあらゆる祝福がついてまわる。


神様は真理によって人々を刺し貫き、聖霊様は恵みと愛によって人々の心をほぐされる。それによって、人類を悔い改めに導き、人類が御言葉に聞き従って祝福を受けられるように導かれる。


RAPTさんが、命がけで伝えてきてくださっている『御言葉』が、これから急速に全世界に広がり、神様とRAPTさんの御名が世界中で高められますことを、心からお祈りしています。


この時代に送られた中心者は、聖書の歴史の締めくくりを成し、自らの使命を最後まで成し遂げ、これによって天で大きな栄光を受けた。だから、中心者の伝えた御言葉はこれから急速に全世界に広まり、その名が高められるだろう。


RAPTさんのブログ

RAPT | 新・貴方に天国から降り注がれる音楽を

朝の祈り会、および有料記事のパスワードのご購入

BLOG BY RAPT

TALK RADIO

RAPT理論+αRAPT理論のさらなる進化形

十二弟子の皆様とRAPTブログ読者の方の証

動画✴︎NANAさんの賛美歌✴︎

✴︎RAPTさんの写真集✴︎

『RAPT×PHOTO 聖なるもの、俗なるもの』


いいなと思ったら応援しよう!