ばあちゃんちの昭和の遺物が理解できそう
先週、とうとう今シーズン初のエアコンをつけた。現在札幌の賃貸におけるクーラー設置率はどれくらいなのだろうか。私の住んでいる物件は幸いなことにクーラーがついているので夏でも心地よい。
そして、スマートリモコンへエアコンの登録をしようとして気がついた。我が家のエアコンはどうやら設置後20年近く経っているらしい。そんな馬鹿な。築7、8年の建物だったじゃないか。
次の瞬間に気がつく。入居してから生まれた息子が小学校1年生なのだから、少なくとも入居後7年は経っている。出産前にも当然住んでいるのだから、全て足すとエアコンの年齢と同じになった。
この手の話は築年数だけではない。どうやら、出産〜離婚の間の数年の記憶が抜け落ちているようで、独身の自分と今の少し生活に余裕が出てきた自分が地続きように感じてしまっていて、体感3・4年前の出来事は9割方7・8年前の出来事である。
我が家の家電製品は結婚当初に買ったものがほとんどだ。そこそこ新しいと思っていたが、もしかするとそろそろ故障、代替えを検討すべき時期かもしれない。テレビも、冷蔵庫も、洗濯機も、全てが10年選手になっているのだ。それだけでない。家具も、引越し当初に置いたままだし、本棚の本も、クローゼットの服も、10年が経とうとしている。
更に思考を広げる。実家に置いてきたあの全巻揃えた漫画や、編みかけの手芸道具やら、昔ハマっていたダーツのフライトコレクションは20年モノということだ。
私が時間の流れに対して鈍感なのかもしれないが、ばあちゃんちの食器棚に飾られたガラス細工のことを考えると、私が特別鈍感で、私がものを溜め込みすぎで、10年20年選手のモノが増えているのではないと思う。一つの場所にとどまって暮らしていると、思い出とともに、モノも地層化していくことを感じた。これはもう、住む場所を変える以外にこの堆積から逃れる方法がないような気がしている。