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夜の雪道を散歩する話(仮)


 少し前のこと、その頃の私は名状し難い憂鬱をもっていた。どこに行っても私の感性に訴えかけてくるものは何もなかった。決まったような動きで周囲を見てみたり、試しに何か手で持ってそれを嗅いでみたりする。しかしどれも私には無関心を貫ていて、一切の高揚感を与えることはなかった。
 「それでも。私は作品を作らなくてはならない」
 そんな巨岩の様に荘厳な意志が私の脳裡を離れずにいた。私はこれから芸術の道を志す学生としてやっていくのだから、何かに触発されて思わず作品を作ってしまうような気性を持っていなければならない。
 「目の前のちっぽけな枝にだって、何か果てしない思いを巡らせるべきなのではないか」
 そんなことを常日頃から考えているから、外へ行っても、わけもなく何かをじーっとみてみたり、鳥や草が流れる音を無理やり美化して認識しようとしたり、車の風に転がされるただの枯葉に対して浅く薄い哀愁を感じてみたり、そんな芸術家の動作の空虚な模倣をひたすら試みていた。順序が逆転しているのである。

 そんなある日、私はある雪国へ旅行に出ていたのだが、夜になって山の方から盆地の底にある駅前のホテルまで帰ろうとしたところ、大雪のせいでバスが運休になってしまい、徒歩での移動を余儀なくされた。
 「この散歩は非常に過酷だが、何か表現の種になるようなものになるかもしれないな」
 そんな期待がすぐに浮かんだ。非日常的経験は凡人の感性すらも鋭敏にすることができる。私はこの機会を逃すのは馬鹿げた選択だと思ったから、タクシーもろくに調べなかった。
 薄く白んだ闇の中で、バス停から歩く数人の人々が少々黄色がかった街灯ににぼやぁっと照らされていた。その傍で家々が寒々しく深い闇の中にひっそりと群れているのだが、その中で、ちょうどテレビの中の絶景が素朴な部屋の中で異質さを漂わせているのに似た様子で、窓が茜色の優しげな光を放っており、
 「あそこは今頃夕飯だろうか。いいなぁ……」
 と人々を誘惑する。
 無言の列が雪の霧に吸い込まれている。それは出勤時間に駅の改札を絶え間なく通っていく会社員達の、無機質な川の流れの様である。彼らは意識を持って歩いているのではなく、何か大きな構造や力が彼らにその動作を強いているだけなのだ。
 そんなふうに、我々は歩くにつれ目的地を直接的に意識することがなくなり、いつしか歩いていることしか考えなくなってしまっていた。
意識に立ち現れるのは、一歩進むごとに感じる足元の雪を潰した感覚やサクサクという音、はぁはぁと息が上がり思わず漏らしてしまうため息や先の赤い締まった鼻を啜る音、そして手先や耳がキューっと閉まる様に冷たくなる感覚。
 私はその中でも、おそらく最も意識を保っていたと思っている。ーー雪だ、私は過酷な夜の雪道を歩いているのだなーーと、そんなふうに常に自分の状況を俯瞰して、何か面白い話にできないかと考えていた。
 しばらく歩いて道が二手に分かれた。一つは直進して横広のトンネルに入ってゆく道、もう一方は左に外れそのトンネルの上へ進む道である。
 前方のトンネルは恐ろしかった。ただ暗闇が恐ろしいのではない。そこは周りよりもさらに静かで、妙な緊張感が漂ってくる。トンネルを通っていると突然貨物列車が上を走り、トンネル一体に轟音と地鳴りが鳴り響く。そんな気がしてならなないのだ。もちろんトンネルの上は県道のためそんなことが起きるはずが無いのだが、あたりにはそう言ったおぞましい可能性が香っていたので、私はそのトンネルを直観的に嫌に思った。
 それまで動き続けていた足は、本能的に進むのをやめた。私は夜の川の流れを割く一人の岩となった。彼らは変わらず、何かに導かれる様にトンネルへ進んでいった。彼らは意志なき自殺者である。
 彼らに待ち受ける悲惨な未来を想像した私は、怯えた犬の様にもう一方の道へ駆け上がった。死体を引きずった真っ黒な機関車が、背後から苦しい煙を吹いて迫ってきている気がした。
 県道にでた私は、雪を咲かせた街路樹を頼りに歩道を見出した。向こうから学生服を着た少年が歩いてきていた。
 オレンジの街灯に照らされた髪には薄ら雪が積もり綺麗に輝いていて、それが長い前髪から顔に落ちる様で、怪訝そうな表情をしていた。雪国の人間はあんな少年でさえ雪を嫌に思うのだろうかと思わされ、残念に思った。
 流石に広い道路というだけあり、度々車が横を過ぎていて、そのヘッドライトによって降り頻る雪が、一瞬だけ照らし出される。その光景はあまりに無常な美が含まれていた。私は車が通るたびにその光景を追うのだが、私の頭には美が通過したという記憶のみが残り、それがたまらなく虚しかった。
 優れた芸術家は美の印象を一定期間忘れずに持つことができ、その光景も鮮明に思い出すことができるはずであるのに。
 ヘッドライトに照らし出される雪はだんだんと姿を変えていき、最後には美を振り撒きながら嫌味な流し目をする憎い悪女へと変わっていった。

 前方に微かに山脈の影が見え、それを追って後ろの方へ目を向けてみると、闇の中に薄らと巨大な山のシルエットが浮かんでいた。それは人々の営みの根底に存在する、ある種の無慈悲な自然の力の象徴の様に思えた。普段、この自然は我々の足元で息を潜めているが、何万人もの人々を気まぐれに殺すことさえできるのだ。
 私はある小説で見かけた、太古の巨大な亀の化け物を想像した。甲羅の上で過ごす人々は、通常それが生き物であることには気づけない。あまりに巨大すぎるからだ。しかし、その亀は非常に鈍足ではあるが、確実にその巨体を伴って動き続けている。ひょんなことからカメは突然咆哮を上げる。島民にとってそれは、世界の崩壊を告げる無慈悲なサイレンなのだ。脇に滲み出した汗は、そう言った不幸な未来への危惧からである様に思えた。
 しばらく歩くと車の多い十字路が見えた。地図によれば直進するための横断歩道はなく、右折してすぐそこにある歩道橋を使わなければいけない。
 しかしその歩道橋というのも、いかにも奇妙だった。車の喧騒が雪夜の静寂をかき乱し、目まぐるしく変化する時の流れの中で、その歩道橋の階段だけは荘厳な沈黙を貫き、隣接する街灯の乳白色の光に、怪しげに照らされていた。その姿には死臭が漂うような、あるいは先ほどの山から感じたような無慈悲な自然の魅力に似たようなものが感じられ、私はしばらく渡らずにその歩道橋を眺めていた。
 私はある妄想について深く探求した。

ーーもしあの階段を渡った先で人が刃物か何かで刺されて倒れていたらーー

 その妄想から感じた印象は、夜桜が散るような儚いものだった。おそらく彼女は今日自分が亡くなることを何となく予感していた、そして何か巨大な意志に手を引かれるようにして、今日、この時間に歩道橋に立ち寄ったのだろう。そこで浮浪者の様な格好で狂ったような目つきをした暴漢が、苛立った狂犬のように待ち構えており、この人をめった刺しにしたのだろう。刺された彼女が最後に浮かべたのは、抵抗のできない大きな力に対しての無力感であり、夜空から降ってくる牡丹雪は、冷たい床に広がって徐々に熱が失われていく赤銅色の湖の中に、静かに染み入っていった。
 私は、そんな居もしない人に対しての同情を募らせ、自分自身も勝手にそんな寂寥感を抱き、そういった人々がするような、ある種の<了解>似た表情を浮かべながら階段を上った。
 足元には薄らと氷が張られていたため、私は、冷え冷えとした銀の手すりを、綱登りをしている時の様にしっかりと掴みながら、恐る恐る階段を登っていった。
 先ほどまでの妄想の可能性は、事象の天秤の上で激しく揺らいでおり、私はその揺らぎから未来を予測しようとするのだが、その無機質な天秤の周りでは、欲望の高揚の大気が踊っており、客観的な観察を邪魔していた。
 私は階段の頂上の内角から、一度たりとも意識を逸らさなかった。判決が間も無く下されようとしていた。吊り橋の様に胸が震えた。世界はその場のみである様に思えた。
 ようやく角のところまで待て辿り着き、そーっと首を伸ばし、足元から徐々に調べていった。足元の点字ブロックに誘導されながら、視線がだんだ ん遠くに抜けていった。

 その視線は突き当たりまで伸びた。

 つまり、何もなかったのだ。

 私は自分が滑稽に思えると同時に、事象を確定させることが、世界をこうもつまらなくするものなのかと、痛感した。死体も暴漢も大きな意志もない、酷く色褪せた世界がそこにはあった。
 私は足元に横たわる透明な死体を眺めていた。私の背後から逃げる様な足音が、ぺちゃぺちゃと音を立てて過ぎていく。私に憂鬱が重くのしかかった。一刻も早くこれを払いのけたかった。目を開けているのにも関わらず、視界には何一つ写らず、つまらない動画を見ている様だった。
 しばらくして視界の端に、何かが目まぐるしく動いているのを確認した。白だったのが黒くなったり、今度は赤になったり。何かやかましい虫の様で、私は半ば邪気を振り払う様に、髪を置き去るくらい素早くそちらを振り向いた。それと同時に音にも意識が向いた。雪を切るように鳴り響く様々なエンジン音である。そして、後から視界も追いつき歩道橋の柵の隙間から、数々のトラックや軽自動車が走行しているのが見えた。私はその眺めに、牢獄から見る外の風景の様な魅力を感じ、さらに近づいて景色を眺めた。
 景色はどことなく切なかった。何に対してそう思ったわけではなかったが、確かに哀愁を感じた。それは車に煽られて安らかな落下を妨げられる雪々にでもなく、街灯に水滴を垂らしつつ命懸けでしがみつく氷柱に対してでもなく、また奇妙な妄想を裏切られた私自身に対するものでもなかった。
 歩道橋の上からの景色には、漠然とした物悲しい魅力が、夜闇の中に浮かぶ蜃気楼の様に、確かな実在感を持って存在していた。その時の私はそうした魅力に当てられ、意識の浮遊感を感じていた。意識は空間の海に溶け出し、それにつれて肉体との一体感の程度は低くなっていた。浮遊感が絶頂に達そうとしていた頃には、すでに視覚的感覚を代表とする五感の意識はほとんど消えさり、私はただ自分が流れる<印象の大河>を感じるのみとなっていた。
 しかし、突然背中に強烈な冷たさを感じたため、それを皮切りに、今までの状態変化の巻き戻しの様な感じで、現在の自分の肉体的意識を確認した。
私は歩道橋の柵から前傾になり身を乗り出し、そろそろ落ちてしまおうかというすんでのところで、体勢を保っていた。
 私は慌てて後ろに戻った。一層背筋が凍った気がした。焦った勢いで背中を手で確かめると、シャーベット状の雪が手についていた。おそらくフードに溜まった雪が体勢を変えたせいで入り込んだのだろう。
 私はその場に座り込み、しばらくその雪のついた手を見ていた。掌には柵に体重を乗せた時につたであろう跡が、くっきりとついていて、普段見ない様な色の変化が気味悪く広がっていた。
 私はその手を見ながら理解した。ーー自分が、雪国の魅惑的な夜の魔力によって、殺されようとしていたことを。ーー
 そんなこと思って、しばらくの間は底の見えない恐怖の奈落で体を震わせていた。
 しかし突然、愉快な<にやけ>がとまらくなり、とうとう失笑が漏れ出した。どうしてかはよくわからないが、その笑いはある種の思い出し笑いであった。先ほどまでの自分を振り返ってみると、ひどく間抜けな奴だったのだ。

ーー感動が見つからず憂鬱になった人間が、あろうことか感動に無抵抗に吸い込まれようとしていたのだ!そこに最高の対象があることに気づかずに。ーー
 
 そんな自嘲的な笑いをこらえもせずこぼしていると、ふと本来の目的である駅前のホテルのことを思い出した。私は体についた雪を軽く払うと、街灯が照らし車の騒音がよく聞こえる歩道に向けて、階段を降りていった。

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