忘却の彼方、記憶の断片。
学生時代からの友達に久しぶりに会うと、勝手に驚かれたりする。「痩せた?」は結構嬉しい。最大10キロほど減量した直後はいろんな人が「痩せたね」とか「すごいね」と言ってくれていたのだが、近頃は会う人が固定されてしまっているせいでもうあまり言ってくれない。
だから久しぶりの人に会って「痩せたね」が聞けると非常に嬉しい。褒めて伸びるタイプなので積極的に言ってくれるともうちょい痩せられるかもしれない。よろしくお願いします。
あとは「髪伸びたね」も多い。バリエーションとしては「ボリューム増したね」「髪長っ!」などがあるが、印象として髪が大幅に伸びたというところでは変わらないらしい。
ちなみに多分実際自分の髪が一番長かったのは今年の初めくらいで、自分の中では今は「ちょっと短い」くらいの心持ちであり、「伸びたね」と言われると「そうか、この人とはだいぶ会っていなかったのだな」と思ったりもする。
余談だが、そう言われると大体「まあ生きてるからね」と返すがウケた試しがない。元ネタはシンエヴァでアスカはリリンもどきで飯は食えないのに髪は伸びるというところからなのだが、ちょっと流石にオタクすぎるなと思い始めているのでそろそろやめるだろう。
見てくれのイメージは会った瞬間に分かるが、見えないところとなると話は変わってくる。何かの好みとか、ボケ方とか、その他もろもろ。頻繁に会っている人とはその頻度で情報交換をしているようなもので、最近何にハマっているかなどはもう互いにわかっているが、久しぶりとなると意外と難しい。
「最近何観てる?」「最近何聴いてる?」と、探りを入れるとかではなく聞きたくなる。
これが半年や一年ぶりだとまだマシなのだが、例えば三年も顔を合わせてない友と会うとなるとこれは少し難しい。
相手がどれくらい最近のお笑いをチェックしてるかも知らず、日々どのような生活を送っているのかも定かでないとなると、投げかけようにも球種がない。何年来の付き合いなのに今更ど真ん中直球「ご、ご趣味は…」という訳にもいかないし、意表を突いたスローカーブで「媒体って分かる?媒質となる物体。紙媒体。媒体」(Aマッソのコント『紙媒体』より)と出方を伺おうにも確実にすっぽ抜けてデッドボールだ。
いや、相手の出方がどうというよりも、自分が驚かれることが怖いのだ。
「えっ、アイドルとか聴かないと思ってた」とか「えっ、韓ドラとか観るんだ」とか。
別に何も悪いことをしているわけではない。無論、僕が何を聞こうが何を観ようが何をしようが自由ではあるのだ。
しかし、驚かれるということは彼等の中の僕のイメージと現在の僕との間に乖離があるということを明確に示しているようで、それはつまるところ彼等と僕との間に既にヒビのようなものが広がり始めていることを認識させられているのと同義なのだ。
実際、驚かれたところで気分を悪くしたりはしない。むしろ意外性がある方が面白いだろうとすら思う。
しかし、「時間」が少しずつではあるが確実に拡げているこの亀裂のようなものが存在していて、見えない間に音もなく大きくなる様をただやり過ごすしかないのだと思うと、途端に悲しくなるのだ。
朝から晩まで同じ時を過ごした仲間との間にあいた隙間を、たまの再会でここぞとばかりに埋めようとしている。
記憶の定着は反復することが大事だと言う。だから、毎度「あの日」「あの時」の話をして、必死に忘れないようにしているのかもしれない。
友人Tは、「俺はみんなが覚えてないことばかり変に覚えているんだ」と言っていた。僕はそれを羨んでいた。自分は勝手に忘れっぽいと思っていた。
しかし、ついこの間会った別の友人たちには「よく覚えているね」と何度も言われた。僕にとっては美しい日々だったのだが、なぜか皆一様に首を傾げるばかりで、思い出すことができないと嘆いていた。
友人Tよ、どうやら俺も変なことばかり覚えているみたいだ。多分、見方が違うだけで他のヤツらもいろんな事を覚えてると思う。
「思い出話ばかりだ」と僕らはよく言う。でも、それでいいじゃないか。思い出を思い出にしておくために、いつも同じ話で笑っていたい。