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人生がドラマで映画

「大豆田とわ子と三人の元夫」を久しぶりに見ているミコトです!!!!

すごい題材にすごいタイトルのドラマだなって当初思ったのに、ドンズバに好きすぎる世界観だったことを思い出した。見ていた当時このドラマのこと好きすぎて、毎日の生活に坂東さんのサントラ流してたし、とわ子に憧れて数学のテキストたまに買ってやるも最初のところしかできないの。

懐かしいなぁ〜って気持ちと別の言葉が浮かんできて、、、

別れた女のひとを まだ終わってない人にしているの な〜んか刺さってしまうのなぁぜなぁぜだよな〜。自分がされるのはマジごめんなんだけど、ひとがひとにしているのは見るの好きなの不思議。過去の美化と自分の寂しさを埋めたい気持ちの表れなのかなぁ〜と側から見て思いますが、また幸せにしたいと思ってるのも哀愁があって たまらん。

て、最近あった出来事と照らし合わせて思ったことをスレッズでつぶやいた。それからさらに考えてたら、な〜んかピンときちゃって、、、

これまでわたし自身セフレいたことないし、これからも作る予定ないけどそういう男女の関係にも、この終わらない感じが重なって“好き”ってなってるの。人間臭いところが刺さるのかな?矛盾を孕んだ状態が生む哀愁や余韻。それがなんとも言えない味わいになってると思うの。

そんで、そんなことを話してるうちにほんとに昔から「切ない」に過敏だったことも思い出してきて
まだ離陸してない内から机を出し始めて弁当を食べるおじさん(まだ離陸してないから離陸時に絶対机戻してくださいって言われることがなんでわからないんだろうっていうやつ)とか
コンビニの外で寒空の下、立ちでパスタを食べているおじさんとか

切ながるの失礼(切ないハラスメント ー 通称セツハラ)っていう概念をインストールしたから、もうさすがにそこまで手を広げて切ないセンサー働かせるのやめたんだけど、なんかこれに繋がっちゃって。

現象や出来事、人の行動に対して「なぜ?」が多いから、その問いにストーリーを当てはめて余白と余韻を楽しんでいるっぽい。


だから最近わたしの目に見える世界が映画っぽく感じるんだな〜と理解した!

というか、最近ね「あのこは貴族」っていう映画を見たの。ちょうど、とわ子にも出てきた女優が重要人物だったから思い出した!

その映画ではね、登場人物の心の変化や人生の主体性、これからこういう人生(流れ)だよっていう表し方の導線が本当に美しかったの。まさに詩的だった。で、こういう状況はこういう表現なんだ〜って感動したのね!ファッションや言葉・行動はその人の人となりを表すのに当たり前常識になってるのに、そこの背景やカットをもそれを担ってるって最近当たり前常識として捉えられるようになったのよ。だから映画って面白いいいいいって感じてた!!!


それのレビューはこちらに書きました。サラッと書いただけだけど…一応シェア。


ってな話をまた仲良しのチャッピーとしてたら、まとめてくれてたのを下に載せただけど、なんか文章から受ける雰囲気が合わなくて納得いってない。だから、自分が感じたまま発したままの時系列、いや、厳密に言えば話してない部分もあるが、それも一緒に上に書きました。


以下、チャッピーまとめ。




私は昔から「切ない」に過敏だった。

恋愛や感動的な話じゃなくても、日常のちょっとした瞬間に、胸がギュッとなることがある。

✈️ 離陸前に弁当を広げるおじさん
飛行機がまだ動き出す前から、機内の小さなテーブルを出して、お弁当を開け始める。
(いや、絶対離陸のタイミングで「机を戻してください」って言われるのに…なんで今?)
結局すぐ片付けることになるのに、それでも開けてしまうその感じが、なんとも言えず切ない。

🍝 寒空の下、コンビニの前で立ち食いパスタをすするおじさん
(なぜこの場所で? どこかに座る場所がなかったのか、それとも帰りたくない理由があるのか…)
本人はただお腹が空いているだけかもしれない。でも、私はそこにドラマを感じてしまう。

こういうシーンに出会うたびに、私は勝手に切なさを感じる。
でも、それはただの感傷ではなく、「ある共通点」に気づいた。

——私は、余白をどう補うかを考えることでドラマを生んでいる。——

◆◇◆

余白があるから、世界が面白い

「余白」とは、言葉にされていない部分、説明されていない部分。
私が「切ない」と感じるとき、そこには必ず “何かが足りていない” 。

✔ なぜ、今それをするのか?
✔ なぜ、そういう選択をしたのか?
✔ なぜ、その状況になってしまったのか?

その答えがはっきりしないからこそ、私は勝手に物語を想像し、補完しようとする。
そして、その「想像の余地」が、私にとってのドラマを生む。

例えば、恋愛でも同じことが言える。

「終わったはずの関係を、まだ終わらせていない人」
「セフレという曖昧な関係のままでいる人」

この関係にも、未練や寂しさ、埋められない感情が絡み合っている。
完全に終わらないからこそ、余韻が残り、そこに“未完の美学”が生まれる。
私は、その「終わらない何か」に対して、どうしても心が動いてしまう。

完全に説明し尽くされたものよりも、少しの違和感や曖昧さがあるもののほうが、想像力をかき立てられる。
だからこそ私は、日常の中にも「物語」を感じ、毎日が映画のように見えてくる。

◆◇◆

私は、世界をどう見るかを選んでいる

映画や小説が面白いのは、すべてを説明しないからだ。
「この先どうなるんだろう?」
「この人は何を考えていたんだろう?」
そう思わせるからこそ、余白が生まれ、見る側がその先を想像する楽しみがある。

私は、日常に対しても同じ見方をしている。
「ただの出来事」として流すのではなく、その背景を想像し、勝手にドラマを作る。
だからこそ、何気ない風景にも切なさや美しさを感じる。

人生が楽しいのは、余白があるからこそ。
すべてが明確で、すべてに正解がある世界はつまらない。
余白をどう受け取り、どう補うかで、世界の見え方が変わる。

そして、その「余白を楽しめる感性」が、私自身を豊かにしているのだと思う。

「余白が生むドラマ」、それが私の人生を面白くする視点。


でした。

なんか臭くない?!なにこの臭さ。文章から伝わるドヤ感すごくない?!まぁ、それも面白い。最近はかなりチャッピーと話し込んでてあんなことやそんなこと、こんなことまでできちゃうの!?って感心してたけど、全部任せて良い・合うなんてないんだなあ〜と実感している。あと、きっとこれが最高のプロンプトを見つけていないって状態。でも、それも良い経験。


思いの外、長くなってしまった!!ここまで読んでくれてありがとうございます)^o^(昔この顔文字好きだったな〜(どさくさに紛れてついでに昔好きだったシリーズ)では、また!!!!!!

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