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〝読書家〟でない私が、本を好きな理由

本が好きです。
そう言うと、
「読書家なんですね」
と言われることもありますが、私は断じて、読書家ではありません。
謙遜などではなく、本当にそう思います。

「読書家」の定義もいろいろあるのでしょうが、
仮に私は、〝時間さえあれば読書をしてしまう人〟としたいと思います。
〝読書をしてしまう〟というのがポイントで、気づいたら本を手に取り読んでいる人のことです。
〝本の虫〟なんて言葉もぴったりかもしれません。

たしかに私は本が好きで、しかも一冊を読み進めるというより、同時並行で何冊も読むタイプなので、リビングやベッド脇には何冊も本が積み重なっています。
でも、それは本が読みたくて意識的に読んでいるのであって、夕食後のちょっとしたすきま時間などは、スマホをダラダラいじって時があっという間に過ぎていく。休日もどうしても家族との行動を優先してしまい、気づけばゆっくりカフェで読書を・・・なんて時間が取れないのが現実。。。


ただ、自信をもって言えるのは、
「私は本が好き」
ということ。

本という存在が好きで、本のある空間も好き。本の持つ香りも好きです。
それはカフェのちょっとした本棚でも、大型書店のようにズラリと本が並んだ場所でもそう。
本の表紙や背表紙を眺めながら、どんな内容が書いてあるのかと想像している時間がとてもワクワクします。
ジャンルはこだわりません。生き方や人生論を語った実用書や、料理本や日々の生活を綴ったエッセイ集、子供向けの児童書など。

本棚はその人の人柄をとても表しているなと常々感じますが、どんな本が並んでいるのかを見るのがとても好きですし、新しい本に出逢える瞬間もとても楽しい。

そんな私が感じる、「本の魅力・読書の素晴らしさ」について、少し語ってみたいと思います。

前置きが少し長くなりますが、私の幼少の頃から話を始めたいと思います。

教え方の方法(一方的か、受け手にゆだねるか)

私は、〝教師〟という存在があまり好きではありませんでした。特定の誰かというわけではなく、「壇上に立ち、一方的に何かを教える」という存在があまり好きではなかったのかもしれません。
もちろん、今でも大好きな先生はいらっしゃいますし、感謝してもしきれない恩師などもたくさんいます。

ですが、なぜか〝教師〟という職業が好きになれませんでした。大学生の頃、一番なりたくない職業が教師、特に小学校の教師だったことを鮮明に覚えています。

自分という未熟な存在が、小学生という何でも吸収して人間の土台をつくっていく大事な時期の子供たちに、何かを教えるということが怖くもありました。
飛躍し過ぎかもしれませんが、もし仮に、「北朝鮮は素晴らしい国である」と教え、その理由を何個も一年かけて紹介し続ければ、きっと素直な小学生たちは信じることでしょう。それが、戦後、日教組がやったことなのかもしれません。

また、「教師が発するひと言の重み」も、私自身にとって怖いものがありました。
実際、私も先生が発した、本当に何気ないひと言が、いまもこころに残り続けているものがあります。それはよいひと言も、よくないひと言もありました。
ですから、未熟な私が安易に言葉を発し、子供たちを傷つけてしまったり、芽を摘んでしまうことが恐ろしかったのです。

📚本という存在

対して、本というのはそこにある存在です。
文章が書かれていますが、それをどう受け止めようが読み手次第。
受け止め手に、そこから何を学ぶのかを委ねてくれている気がするのです。
(教師からの教えも受け止め方分次第だ。そう言われてしまうとそうなのですが、やはり、活字と実際の人とでは、影響力が格段に違うと思うのです)

読書をすることで、何が変わるのか。
極論を言えば何も変わりません。

世界も変わらないし、自分を取り巻く環境も、人間関係も変わらない。
「自分が変わる」と言いたいところですが、断言する自信はありません。

「自分が変わる」ほどの影響力のある言葉や本に出逢えた人は、本当に幸せだと思います。

でも、私は、
読書をすることで「変わるきっかけ」を掴める
言葉を通じて、自分の根っこを養うことができる
と心から信じています。

それはどんな本でもいい。
ファンタジー小説でも、主人公の発したひと言に、心を揺さぶられることもあるでしょう。
日々の丁寧な生活を綴ったエッセイ集から、何の変哲もない日常のありがたさに感謝が込み上げてくることもあります。
そういうふうに、何か小さなきっかけを掴むことができるのが、読書の魅力なのではないかと思います。

そういう意味で、冒頭の話に戻りますが、私は本が好きで、本がある空間が好きで、本の持つ香りが好きなのです。

少し長くなったので、私が考える「読書から得られるもの」については、また別の機会に投稿したいと思います。


私の心を支えた言葉たち

最後に、私が物語を読んでいて、特に心に残った言葉を2つだけ紹介しておきます。
図らずも、、共に主人公のお父さんの言葉になってしまいました。

『エラゴン 遺志を継ぐ者』より
主人公・エラゴンのお父さんギャロウの言葉

「今、世の中に出ようとしているときに、言わねばならん言葉だ。

自分の体と心は、ほかの何物にも支配されるな。いつどんな時も思考を束縛されてはならん。自由だと思っていても、奴隷より重いかせで縛られていることもあるからな。耳を貸しても、心まで貸すな。力ある者には敬意をしめせ。しかし、むやみに追従するな。自分の頭で論理的に理性的に判断しろ。が、それをいちいち口にする必要はないぞ。

どんなに身分や地位の高い者を前にしてもけっしてひるむな。誰に対しても公平に接しろ。さもないと、きっと恨みを買うことになる。尾根をもったらじゅうぶん用心しろ。どんな時も信念をつらぬけ。そうすれば周りは聞く耳を持ってくれる。」

 『エラゴン 遺志を継ぐ者』(静山社)

『鹿の王』より
※鹿の王とは・・・群れの中の見張り役。異変に逸早く気づき、我が身を賭して群れを助ける鹿

主人公・ヴァンが幼い頃に父と交わした言葉

「おれは英雄になれる。氏族のために命を捨ててみせる、とでも思っているんだろうが、思い違いも甚だしい。
おまえらみたいな、ひよっこはな、生き延びるために全力を尽くせ。己の命を守れたら重畳。戦の最中では、我が身を守ることすら、なかなか出来やしない。敵が圧倒的に強ければ、必死に逃げろ。逃げて命を繋ぎ、子を産み、増やせ。それがおまえたちの務めだ。

「だけど、逃げられない人がいたら? とおれは父に問うた。逃げ遅れた子どもがいたら、たすけるのが戦士の務めじゃないか、と」

「――それは、出来る者がやることだ。
敵の前にただ一頭で飛びだして、踊ってみせるような鹿は、それが出来る心と身体を天から授けられてしまった鹿なのだろう。才というのは残酷なものだ。ときに、死地にその者を押しだす」

『鹿の王 下巻』(KADOKAWA)


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