Blessing
潮騒は轟音となって響く。
緑から藍にそして、青から白にグラデートしていく海と空が交わる一直線の水平線に浮かぶ一隻の船を見つめる。
波はうねり、テトラポッドにぶつかっては、飛沫を散らす。
海面に拭き晒す風が強制力となって重い重い水塊を持ち上げては、重力ポテンシャルの隙間にゆっくりと手を離しているのだ。
私は神による創造というものを安く考えすぎてしまっていたようだ。この広く深い太平洋、これを覆う想像を絶する水量。
波、風、岩。
これも被造物なのだ。なにも人間と人間の生み出す秩序だけが被造物ではない。人間が模倣ることができるのは、そのほんの一部でしかないのだ。
海の上に空気があるように、空気の上にはエーテルで満たされた天界がある。
ソクラテスは死を目前にその無上の世界について夢想していた。
この広大な海よりも広い世界があるのか。天界にいけば、一体どんな景色が眼前に広がるのだろう。
減ることもなければ、分解されることもない。
しかし不可視なこの私の魂は、はるか遠くの故郷に思いを馳せる。
波は渚に打ち寄せる。
水面には絶えず波が生成消滅していく。
ひと時の形を得て消滅していく様は、可能的空間――すなわちエーテルというべきか論理空間というべきか――におけるエンテレケイアを見ているようである。
そして私は思う。
論理空間の端でもこの海と陸がまじりあう場所のように、何かにぶつかったエーテルが、現実とも可能性とも区別のつかないような何かを生成しているのだろうかと。
……いやだめだ。
ウィトゲンシュタインは言っていた。
境界を考えうるとはその両端について考えることができるということだと。
つまり、言語によって思考する私には、語りえぬものについて考えることが許されない。したがって、この思考において考えうるものと考ええないものを両端とする境界線、つまり論理空間の端というのは考えることができない。
語りえぬものというのはそんなヤワなものではないということにいまさらながら気づかされる。
……私は無意味なことを考えようとしていたのだ。
現実はなんと重いことだろう。
そこには質量があるのである。
ーー質量をもつもの。
可視的で、多様な形をもち、知性的ではなく、分解可能であり、決して自分自身と同一でないようなもの。
つまり肉体に似たものだ。
コミュニケーションすることが仕事だと思っている人がいる。
製造業の人間でありながら。
また、製造業の人間でありながら技術を知らない人間がいる。
製造業とは、ものをつくることを生業とする業界である。
そして面白いことに、
この世界では、まさに自分の手でものを作り出せる人間よりも、口達者で技術を、現場を、知らない人間のほうが高給取りなのである。
大変面白い。
弁論術に詰め寄るソクラテスの声をもっと聴いていたい。
私は良くも悪くも観念論者である。
どうやら私は永遠的なものへの憧れで生きている。
私が信頼するのは己の肉体ではない、己の精神である。
Zwei dinge erfüllen mir……der bestirnte Himmel über mir, und das moralische Gesetsz in mir.
(ここに二つのものがある……わが上なる輝く星空と、わが内なる道徳法則である。)
つまり驚嘆と尊敬に値するものを私はすでに己の内に有している。そしてこれはあくまでも私の内にあるものであって、mortal Seinたる私とは別のものであるように思われる。
「ねえ、神様ってどんな人?」
「人ではないからね、我々の語彙で言い表すのは難しいけれども。」
「特徴だけでいいからさ。」
「そうだね、一つにはこの世界の創始者ということだ。」
「世界を始めたってこと?」
「そう、世界はものでできているだろう?そして、その一つ一つは物理の法則によって生じている。そしてその物理の法則を与えたのが神さ。」
「私の体をつくる腕、胴、脚……それらをつくる細胞……その細胞をつくる分子・原子……原子をつくる電子・陽子・中性子……そのまた素粒子……」
「では、その先はどうなっているだろうか?」
「素粒子をつくる(構成する)のが神なの?」
「悪くない考えだけどね。でも、そう考えるのにはいろいろと不都合が多い。」
「神は物質になってしまう……ということ?」
「そのとおり。私の思うところでは神は物質に実在を与えられる者でなければならない。」
「じゃあ、物理の法則を神とするのは?」
「それも悪くないが。確かに創世記やプロメテウスの神話はそのようにも読み取れそうだ。」
「『光を見てよしとされた』はマクスウェル方程式そのものにも思えるし、『人間に知恵を授けた』というのも充足理由律に適う気はするよ……?」
「でも、法則そのものはそれだけで実在を持つだろうか?」
「形式だからね、実質は別のものと考えないといけないか……」
「そうなんだよ。だからここで考えないといけないのは、物理の因果律をたどっていっても神にはたどり着けないということだ。」
「つまり、原因の系列から外れたところで思考を働かせないといけないということ?」
「物質の原因の系列、つまり自然法則から外れて(思考する)ということだ。」
「自然法則によらない思考……どう考えればいいのかなあ……」
「カント先生は関係カテゴリーをどう考えていたかな?」
「『AならばB』の仮言的判断、『AさもなくばB』の選言的判断、『Aである』の定言的判断!」
「そうだね。この中で因果律を基礎づけるのは?」
「仮言的判断!……わかった、自然法則によらない考えは、仮言的にも選言的にもよらず定言的に考えればいい、ということだ!」
「そうだね、もう少しヒントを出そうか。カントの自由論を思い出してくれ。自由なふるまいとは仮言命法ではなく、定言命法であるということだったよね。」
「『汝の意志の格率が常に同時に万人の普遍立法の原理に妥当するように行為せよ』だね!」
「それが命じるところはさておき、孔雀ちゃん、君は自由かね?」
「もちろん、私は私の意志が常に万人にとっての意志にふさわしいように行為することができるので、自由です!」
「つまり、君は君の道徳法則を認識できる、ゆえに自由なんだ。」
「まったくそのとおり!」
「では君は自由であることを認めたことを踏まえて、こう問おう。『君の行為は物質つまり自然法則に規定されたものであるだろうか?、さもなくばその行為は何によって支配されているのだろうか?』と。」
「私は自由。したがって私の行為が定言命法による、つまり自然法則から出てきたものでないことは明白です。」
「ではそれは何によって支配されているのだろうか?」
「私の理性としか言いようがありません。」
「つまり、君は自然法則のほかに現実に働きかける根源があると主張するのだね。」
「確かに私はそのように考えなければなりません。」
「うむ、君の行為は君の理性が起源となって実現するということが分かった。では、自然の起源となるものは何だろうか。」
「自然にとっての理性のようなもの……」
「ところで、孔雀ちゃん、君は自然の一部か、それともそうでないのか。」
「私の肉体も魂も自然の一部と考えたい気がします。」
「では、自然は物質的にも精神的にも君自身の存在と相似形であって、尚且より大きな存在というわけだ。」
「そうだと思います。」
「ではもう一度、問おう。自然の起源となるもの、つまりその創始者はだれか?」
「それは神としか言いようがありません。」
遥かアメリカ大陸まで至るFukushimaの太平洋を目前に、私はАлексиевичを開く。
そこには文字通り前代未聞の出来事を前に、目に見えないがゆえに恐怖することすらできない人々のふるまいと、見えないものにより蝕まれていく肉体の惨劇が描かれている。
しかし、これは完全な事実なのだ。86年4月26日。
論理空間の端を考えることができないのと同様、人間は未知のものに対して恐怖することさえかなわない。
オイディプスが予言から逃れようとして、かえってその成就に近づいてしまうように、神が定めた運命を知ることができなということにもどこか似ている。
我々はデュオニソスをこき下ろしたペンテウスを笑うことができようか。
人間とはなんと小さいものか。
知るも知らぬもいずれの道も救いは約束されない。
以上🦚