見出し画像

自分は相手のことをちゃんと見ているか

「最近じゃ給食を食べ切るまで食べさせられる事はないってほんと?」

私より20歳くらい年上の知人からこんなことを聞かれた。

私と同年代の人と給食の話題になり、給食を食べきれず放課後まで食べさせられてた子っているよね〜と話したら、「今じゃそんな事させたら問題にされますよ」と言われ、驚いたそうだ。

数年前に体罰についてテレビがよく取り上げていた時期があった。その中で給食での指導についても、子供に無理強いさせないように変えなければと言われていたように記憶している。
知人は独身で、周りも家庭よりも仕事漬けになるような環境で生きてきたから、そういった最近の教育事情について情報を得てこなかったのだと思う。

私は「食べ切らせるのって好き嫌いなく食べてほしいからじゃないですか。でも無理矢理食べさせたところで普段から食べられるようになるとは限らないし、むしろ余計に嫌いになってしまう人もいる。そもそも量的に無理な子もいるだろうし。だからやめる流れになったんだと思いますよ。」と自分の解釈で説明した。
すると知人は「その理屈はわかるよ。その通りだと思う。でも俺が子供の頃は放課後になろうがなんだろうが居残りして食べ切らされたんだよ。」と言った。
ただただ不思議そうにキョトンとした顔でそう言った。

その言葉に今度は私がポカンとした。
理屈は理解していて賛同もしているのに、変なことのように話すのはなぜだ。どういう意図で話しているんだ。
この会話が対面ではなく文字だけでTwitterのような場所に流れていたら、知人の言葉は”完食を無理強いさせない派”の反感を買いかねない。なんなら”完食させるのも教育派”も表れて、激しい争いが始まりかねない。
でも私の目の前にいる知人は、その論争が始まっても中に入らないような、ただ不思議な現象を見た子供のような顔で立っているのだ。どうあるべきという主張も、今の子だけずるいといった羨む気持ちも感じない。

しばらく考えて、ハッとした。
知人にとって”給食は完食すべき”という指導は、変わる可能性のあるものではなかったのかもしれない。
私はいつか”ipadのようなタブレットがカードのように薄くなった”としても、不思議には感じない。その技術には感嘆するだろうけれど、タブレットをより薄くする研究は誰かがしているかもしれないと思う。ブラウン管テレビが薄い液晶テレビになり、ネットにも繋げるようになったように。確実にこうなるという確証はなくとも、電子機器が際限なく便利さを求めて日々進化していることは知っているからだ。
しかし、”自分の子供でも頭を撫でるという行為はタブーになった”と言われたら驚く。実際そういう考え方の国は存在しているが、日本においての現在から未来への変化としてありうるものと私は思っていないからだ。

可能性だけの話をしてしまえば、この世の中で絶対に変化しないものはない。ありとあらゆる物質や常識が、いつか変わる可能性がある。
ただ、変わりうるものとして捉えていないものが人それぞれにあって、とりわけ物質以外の目に見えないものは個人差が大きいのではないか。歳を重ねれば経験から判断することも増え、今まで学習してきたことを覆されることが不思議に感じることもあるだろう。自分の賛否に関わらず。
そして知人は不思議がっているだけであったが、変化しないことに拘る人の中には、内容ではなく変化すること自体にアレルギーを起こしてしまう人もいるのだろうなと思った。

最近、目に見えないものの変化が多いように感じる。それに伴って、意見の異なる人たちの言い争いも。
新たな考え方を持つ人が、昔からの考え方を持つ人に攻撃的な態度を取ったり、新たな流れに合わせよう強要する場面も何度も遭遇した。自分の意見は変えずとも、相手がなぜその意見に至ったのか、知ろうとすれば理解することはできる。理解すれば、新しい答えを見つけたり、違う考えを持つ同士でも相手の見え方は変わるだろう。

自分は相手のことをちゃんと見ているのか。自分に問いかけるきっかけとなった。

この記事が参加している募集

いただいたサポートは執筆する際のカフェ代・知識を蓄えるためのWSや書籍代として使います。得たものをまたみなさんに届けますね。