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ありのままを受け入れ合うためにやりたいこと

ありのままを受け入れ合う

私が田舎でインプロ(即興演劇)をしたいと思うのはありのままの自他を受け入れる感覚を田舎に広げたいからだ。

インプロとは
即興演劇のこと。台本がない中、役者はお互いに関わり合いながら物語を紡いでいく。

田舎に必要なのは魅力か
よく、
「田舎に若者を!」
「田舎生活の魅力をもっと発信しよう!」なんて言葉を見かけるが、
人口流出を防ぐにあたって、
そこにどんな魅力があるかより
そこは自分を受け入れてくれる場所かどうか
が重要だと思う。

それは、働く場所があるのか、都会みたいに電車がないけど自分で車の運転できそうな道路かといったハード面だけでなく、
なにより一人の人間として受け入れられているかということだ。

それは人が生きていくにあたっての土台であって、その土台がなくては魅力なんて享受できない。

都会はありのままを受け入れやすいか
だからといって、都会が田舎と比較して「ありのまま」を受け入れやすい人が多いのかというと、そうは思わない。

上京して10年。
仕事や学生時代のバイト先では、ある程度の年齢の人には必ず結婚の話題を出すし、同性愛者を揶揄するネタが大好きだし、ダイバーシティとはなんぞやといった感じである。
でも大学の学部の人たちは、心理学を学んでいるという特性もあってか、そんな面は無かったように感じるし、今いるインプロ界隈では人の特性や思想を笑いのネタにしたりはしない。

恐らく、身近に当事者がいるかどうか、一般的でなくても大丈夫と思えるかどうかで持てる視点が変わるのだと思う。

それはきっと田舎でも変わらない。

ただ田舎は、一般的であることから逸れても大丈夫と思うきっかけが少ない。
マイノリティを受け入れてくれる場所、マイノリティ同士が集える場所が極端に少ない。

マイノリティだって、都会ならばそれなりの人数がいるし、性でいえば新宿二丁目のようにそこ行けば仲間に出会える、堂々と出せる、そんなコミュニティがある。
田舎にはそれがない。当事者は逃げ場がないし、自分だけが変だし直さなければいけないと思いがちだ。
("マイノリティ"と言う言葉を使うと性や障害の話になりやすいけど、それに限らずね)

インターネットはチャンスでもありピンチでもある
インターネットが広がり、多様な価値観を知ることができるようになったのは、田舎にとってチャンスでもありピンチでもあると思う。

情報の世代間格差が生じれば、友達は理解してくれても、親や周囲の大人の理解が得られないこともある。
当事者がまだ幼い学生であった場合、"社会"は周囲の大人だ。
都会には仲間がいると知っても、車がなくてはなかなか行けない場合もある。
実際に出会えることがなければ、仲間もフィクションのように感じられてくる。
実在しているとしても、どこか知らない国の戦争の話をされてもなかなか実感を持てないのと同じような感覚。

今どう受け止めているのか書くと長くなるのでここでは控えるが、私は田舎にいた頃自分のマイノリティに悩んでいた。

私は小学1年生の2学期から義務教育終了まで学校へ行かなかった。

ネットを開けば仲間がいる。気にすることでもない。大人になれば不登校の経歴があっても仕事をして生きている人もいる。自由がある。

ネットはそう言ってくれるけど、まだそこに行けない。大人になるまで我慢しなきゃ行けない。

それは大人になれば大丈夫という希望ではなくて、大人になるまでの●年地獄だよと言われている気分だった。

その頃、マイノリティの部分が周囲の大人にも受け入れられていたら、もう少し楽だったかもしれない。
仲間のいない田舎は無理だな、と思わなかったかもしれない。

あくまで、たらればの世界だけれど。

かつての自分のような子どもや
自分らしさを封じ込めてきた大人たちが

自由にいられる場所をつくりたい。
自由を受け入れ合う感覚を広めたい。

それが、散々嫌なこと話したけど、好きな部分も沢山ある田舎のために、私がしたいことだ。

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