
[1分小説] 知らない方がいいこと
世の中には、知らない方がいいことが、たくさんある。
・
予定の発着時刻より10分遅れで来たバスに、
悦子は、暑さで少しクラクラしながら乗り込んだ。
平日の午前中のバスは、ただでさえ乗客が多い。
今日みたいな遅延があれば、車内が混雑するのはなおさらだ。
ふぅ、と小さく溜息をついて、悦子は覚悟を決める。
後から乗ってくる客に押されるように、否応なしに
バスの奥へと詰め込まれていく。
仕方ない。15分も揺られれば駅に着くはずだと、
彼女は手すりに掴まった。
ふいに、隣の人の視線を感じた。
悦子の頭上の、黒い大きなリボンのついた、麦わら帽子を見ているようである。
『邪魔かしら』と思い、彼女は帽子を脱いで胸の前に置き、そっと手で押さえた。
「おりぼん、かわいい」
ポツリ、と小さな声がした。
見ると、斜め前の席に女の子が座っている。
母親の膝の上に乗った可愛い女の子。
3歳くらいだろうか。彼女の帽子をじっと見ている。
『自分にも、こんな娘がいたら───』
悦子は思う。
結婚して10年経つ夫とは、もうずっと前から関係しなくなっていた。いまさら子どもができる望みも薄いだろう。
とはいえ今の暮らしに、特に不満もない。
だから『もう、このままでいいか』と最近は思うようになっていた、のだけれど───
知らない方がいいこと。
かろうじて周囲の乗客との距離を保ちながら、
悦子はぼんやりと考える。
・
『夫が浮気をしているかもしれない』
そう思い始めたのは、夫の部署異動があった今年の春のことだった。
「飲み会は苦手だから」と極力その手の集まりを避けてきたはずの夫が、春先から妙に
「今日、飲み会」と家での夕食をスキップするようになった。
それだけではない。ワイシャツの肩口にうっすらと赤みを帯びたシミが着いているのを、彼女はアイロンがけの最中に見つけていた。
『知らない方がいいことというのは、』
車体の揺れを全身で受け止めながら、悦子は思う。
『知っていた方がいいことよりも、
はるかに決定的な力を持つ気がする───』
はたから見れば幸せな、夫とのふたり暮らし。
しかしその裏で、彼女はそんなことを強く感じるようになっていた。
・
しばらくすると、駅の手前でバスの動きが鈍くなった。
はぁ。と、今度はたっぷりと深い溜息をつく。
『時間に遅れてしまうかも』
迎えの車で混雑する夕方でもないのに、こんなに道が混むのも珍しい。
悦子だけでなく、次第に他の乗客が発するいらだちが、バス車内に立ち込めてきた。
『早く着かないかしら』
そう思った直後だった。
さっきの女の子が、大きな声で言い放った。
「ねえ、ほんとうにこの道であってるのぉ?」
運転手への遠慮のない疑問に、女の子の母親も、
そのまわりの乗客も、思わずつられて笑った。
駅と市街地を1日中ぐるぐると巡回するバスが、
道を間違えるはずはない。
悦子も、自然と頬を緩ませる。
「あってるよ、この道で」 母親はやさしく言う。
「バスの運転手さん、道、間違えたりしないよ」
・
結局、バスは予定より20分遅れて駅に到着した。
降り口から他の乗客もろとも吐き出されると、
悦子はすぐにスマホを取り出した。
アプリを立ち上げ、急いで文字を打つ。
「ごめんなさい。少し遅れます。
先にお店に入っててください。」
そう打って、少し迷ってから、
「会えるの、楽しみにしています」
と片手で素早く書き添えて、メッセージを送った。
そして、スマホを握ったまま、
悦子は上品なパンプスを鳴らして、軽快な足取りで駅構内へと歩みを進めた──。
・
世の中には、知らない方がいいことが、たくさんある。