[1分小説] あの日の恋
大事なことは、いつだって小声で囁かれる。
「俺たち、もう終わりにしないか」
青井くんは、何食わぬ顔でポツリと言った。
ようやく人だかりがはけた学生食堂。
そのテーブルのひと隅に、彼と私は居た。
空になった皿を載せたトレーが、カランと音を立てる。
トレーと共に立ち上がった青井くんが告げた「もう終わりにしないか」という言葉は、
提案、というよりはすでに採択された決議のように、とても静かに私の頭上から降ってきた。
「……終わり?」
「うん、別れよう。そろそろ」
中庭に面した大きな窓から、午後2時の陽射しが入る。
雨が降っては止み、を繰り返す梅雨時には珍しく、差し込んだ光が背後から彼を柔らかく照らし出していた。
そのとき定食のスープをすくいかけていた私は、
まるで亀のように首だけ上げて、その姿勢のまま固まっていた。
……終わりにする?
……別れるの?
いやだ
いやだ
いやだ
いやだ
絶対、いやだ。
「わかった」
表情の読めない彼の顔を捉えながら、私は静かに言った。
「うん。じゃ、そういうことで」
それだけ言うと、青井くんは空になった食器ともども、その場から立ち去った。
・
そもそもが、不釣合いな恋だった。
大学に入って一目惚れした青井くんは、新入生の中でも明らかに目立つ存在だった。
たまたま一緒になった天文サークルの仮入部で、「俺んち、ブルジョワだからさ」。
冗談ともつかないそんな申告を、初対面で爽やかに言ってのける青井くんには、当然ながらその日もすぐに取り巻きの女の子たちが沸いた。
スラリと長身で、
鼻筋が通った、少し甘いマスクの青井くん――
そんな否応なしに人目を集めるルックスの持ち主に、私は仮入部の新入生歓迎会で、ひっそりと告白をした。
上級生と違って新入生はまだお酒が飲めなかったけれど、
初めて目にする "酔っ払った人たち" が醸す混沌としたムードに、私も心なしか酔った気になった。
そして、
「今しかない」と思った私はどさくさに紛れて、
言った。
「青井くんのこと、好き」
ストレートに放ったその言葉の返事は、
少し間を置いて届いた、「いいよ」の3文字だった。
・
「いいよ」
言われたのはそれだけで、
「俺も」だとか「好きだ」とかは言われなかった。
「『いいよ』って、それ許可制みたい」
あるとき友人は言った。
"許可制" ――。権限を与えるのは、一方のみ。
与えるのはもちろん青井くんの方で、私には、
その時たしかに何の権利も選択肢もなかった。
はじめから、そんな恋だった。
形の上で付き合いはじめて1ヶ月が経った頃、
青井くんがこう言ったのを覚えている。
「なんかお前って、幸薄そうだよな」
その瞬間『なにをいきなり』と心の奥が歪んだけれど、非力な私は「そうかな」と曖昧にその場を濁すことしかできなかった。
青井くんの目に、"幸薄そうな女" として映った私――。
付き合っていた3ヶ月の間、私の名前を呼ぶ声には、形式的な響きしかなかったのかもしれない。
そこには最初から、愛情の欠片もなかったのかもしれない。
睫毛の端から、大粒の滴がボタッと音を立てて、
トレーの上に落ちた。
『でも――』
私は思う。
『それでもいいの。幸せにしてもらったから』
まぶたの裏には、まだ立ち去った青井くんの後ろ姿が焼き付いている。
私はきっと、この先も過去への扉ばかり叩いて生きてゆくんだと思う。
みじめさ とか人恋しさに泣き濡れながら、ずっとずっと青井くんのことを思いながら生きていくんだ。
― 鬱蒼とした雨に覆われる世界の片隅、
窓の外では初夏の訪れを告げる清らかな風が吹いていることを、このときの私はまだ知らなかった ―。
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