同居本格開始
さて、父の退院直後から進めていた同居の準備だが、3度目の抗がん剤の3日前にやっと引越しの日を迎えた。引越しの日と言っても、引越し業者がまとめて荷物を運んでくれたり、電気屋さんにエアコンの付け外しの作業をしてもらったりしたというだけで、それまでの間に自分達で運べる荷物は夫の車で少しずつ運んでいた。何度も何度も、本当に何度も何度も、2人の仕事の合間を縫ってマンションと父の家を往復した。20歳から一人暮らしを始めて、度々引越しを経験したことのある夫も「今回の引越しが一番大変だった」と言うくらいには根気が必要だった。舞台やイベントの音響を生業とする夫は3LDKのマンションの2部屋を占領する量の仕事道具を抱えていたため、引越し業者を呼んでもまだ全ての荷物を運び切ることが出来ず、マンションの引渡し日まで、ちまちまと荷物を運び続けた。もちろんそんな大量の仕事道具が全て家に収まるはずはない。1階の4畳半の部屋は寝起きと簡単なパソコン作業だけ出来るように整え、家から一駅隣、徒歩7分の距離に借りたワンルームのマンションを事務所兼倉庫として使うことになっていた。
当然父のことも数日間はほったらかしの状態となり、食事の用意もしてやれず、スーパーで好きなお惣菜を買ってきてもらった。がんが見つかる前、私が結婚して家を出た頃は、好きなものを買って好きなように食べていたのだから、私達が食事の世話をすることでそれが出来なくなるとストレスになるかも知れない。胃のことを考えると家で手作りしたものを食べてもらうのが一番だけど、スーパーのお惣菜も時々ならいいんじゃない、ということで、何日かはお惣菜生活を楽しんでもらった。引越し翌日には「同居のお祝いに」と赤飯も買ってきてくれ、せっかくだからと手を休めて一緒に食べた。最初に話を持ちかけたときは「ちょっと考えさせて」と言っていた父が、一緒に住むことを喜んでくれているのかな、と嬉しく思った。
全ての荷物を運び終え、とうとう3人での新しい生活が始まった。
近所の方への「同居することになりました」の挨拶、住所変更の手続き、郵便物の転送届、夫は免許証の住所の書き換え。荷物もどんどん整理していく。今まではキッチンで作った料理を隣の居間へ運び、座卓で食事をしていたが、夫が腰が悪いこともあり、私達がマンションで使っていたダイニングテーブルをキッチンに置いて、そこで食事をとるようにしてみようと父に提案した。もともと物が多くて雑然としていたキッチンは、マンションから持って来たテレビや食器棚を置くことによってさらにごちゃごちゃした。しかしながら父はテーブルに座りテレビを見ながらみんなで朝食を食べることが気に入ったようだ。夕食は落ち着かないようで、これまで通り居間で食べる習慣が抜けなかった。
その居間にも新しい家具が登場する。私達がマンションのリビングで使っていたソファだ。2人がけの小さなソファだが、物が多過ぎて置ける部屋がない。父がくつろぐのに使ってもらってはどうかと、申し訳ないながらも居間に置くことにした。キッチンでの食事に比べるとそんなに気に入った様子はなかったが、ゆったりとソファに腰かけてテレビを見る姿を度々目にするようになり、まあよかったかなとひと安心した。
こんな風にして私達の荷物を運び入れるにあたり、仕方ない話ではあるが、父の持ち物を処分してもらわなければならないことも出てきてしまった。
父が着替えをするためだけに使っていた、1階の4畳半の和室。今後は夫の部屋として使うことになる。そのため、この部屋に置いてある大きな婚礼家具を処分しなければならない。スーツがかけられる大きなタンス一つ、着物が沢山しまえる大きな和ダンス一つ、どちらも2階や3階に移動させるのは不可能なくらい大きく、リサイクル業者にも「婚礼家具は今の時代では買い手がつかない」と引き取りを断られてしまった。結局、父に何度も相談した上で粗大ごみに出すことに決めた。
タンスの上には開き戸の棚がくっついていて、取り外しが出来たのでそれだけ3階に残しておくことにして、粗大ごみの予約日に夫と2人「よいしょ、よいしょ」とかけ声を出しながら必死で家から運び出した。高価なものではないにしろ、40年前の頑丈な造りのタンスだ、重くてたまらない。ごみ置き場まで運んでいると、道行く何人かの人達が「あらまあ、まだきれいやのに、もったいないねえ」と声をかけてきた。「私達も本当は捨てたくないんですよ。でももう置き場所がないし、誰ももらってくれないんです」と返事をしながら、とても悲しい気持ちになった。父にとっては、母と結婚したときから家にある思い出のタンスのはずなのに、それを捨てさせるはめになるなんて。私だってこのタンスが家にあったのを幼い頃からよく覚えているのに。でもこれがあると私達の生活スペースが制限されてしまう。どうしようもないのだ。
頼むからもう私達のことを見ないでくれ、話しかけないでくれと思っていたが、声をかけてきた人のひとりが、もったいないから譲ってほしい、今すぐ車で取りに来ると言うので、願ったり叶ったりだと大急ぎで粗大ごみセンターにキャンセルの連絡を入れた。私はその後仕事に向かったため、その人が持って帰ってくれたのを確認することは出来なかったが、もし今も使ってくれているのならとても嬉しい。
この1階の和室には他にも父の鏡台や会社員時代のスーツをはじめ、沢山の衣類が置かれていたが、全て3階の父の寝室へ移動させた。捨てても捨ててもなかなか物が減らず、ある程度快適に暮らせる状態になるまでにけっこう苦労した。父の不要品、私の荷物、母の遺品、全部合わせてごみ袋20個分は捨てたと思う。母が亡くなってから16年、いかに父と私がこの家の手入れをしてこなかったかがよくわかった。
食べるため、寝るためだけに住んでいたようなもので、本当に全く手入れをしてこなかったので、再び住み始めたわが家は思った以上に不便だった。まず、2階のトイレについているウォシュレット便座が壊れていて冷たい。仕方ないので便座シートを買ってきて貼ると、少しはましになった。そのトイレの照明スイッチも同居を始めて間もなく壊れてしまったので、ホームセンターで部品を買って夫に修理してもらった。
もともと廊下の照明が少なく、つけても薄暗いのに、父は夜中にトイレに立つとき電気をつけずに移動するくせがあった。抗がん剤で膝がガクガクするというのにこれでは危ないと、ちゃんと電気をつけてからトイレに行くよう伝えると同時に、暗くなると自動で光る小さなLEDライトをあちこちのコンセントに挿した。「足元が見えやすくなった」と父の反応も良好だ。
家族が増えることによって玄関の出入りが多くなるので、玄関灯や門灯をセンサーライトに交換しようとしたが、型が合うものが見つからず断念。靴箱の上に、置き型のセンサーライトを置いたら少し明るくなった。夫の部屋の前の廊下も明かりがなく暗かったので、同じライトを買った。今までは使っていなかったガレージに車止めとスロープも設置した。
夫の力を借りて、不便だったわが家がどんどん便利になっていくのが嬉しかった。
朝7時半、3階で別々に寝ている父と私が一緒に起き、食事の用意をしていると、1階で寝ていた夫も起きてきて、ダイニングテーブルでテレビを見ながらパンを食べる。マンションから持って来たコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを飲む。しばらくすると夫は一駅隣の“事務所”に“出勤”し、私は洗濯などの家事をする。11時半頃になると父が「昼どないする?」と聞いてくる。大抵の日は2人でカフェRに行きランチを食べる。帰りに近くのスーパーで食材や父の朝食用の菓子パン、父のおやつなどを買い、居間のこたつに入りテレビを見ながらおやつを食べる。3日に1度、夕方4時頃から父は入浴。7時から夕食。夫は本当はまだ事務所で仕事をしていたい時間だが、時々帰ってきて一緒にごはんを食べてくれた。その後もみんなでテレビを見ながらくつろぎ、父は9時頃にいそいそとお菓子を出してきてつまみ、10時半に「早よ寝えや」と私達に言いながら寝床に入る。そんな穏やかな日々がゆっくりと、本当にゆっくりと過ぎていく。