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シェイクスピア『十二夜』黄色い靴下と十字の靴下留め
※こちらのマガジン〈サリンジャー×シェイクスピア読解〉では、J.D.サリンジャー作品を読み解くにあたり、押さえておきたいシェイクスピア作品の解釈を掲載します。
シェイクスピアの『十二夜』では、マルヴォーリオという堅物で己惚れの強い伯爵家の執事がいたずらの標的にされ、黄色い靴下に十字の靴下留めをつけた姿で登場する(105)。
「お前は己惚れ病に罹ってる」(34)「ものすごい己惚れ屋でね」(64)「己惚れやがって!」(78)と繰り返されるマルヴォーリオの欠点は、ナルキッソス=永遠の少年の未熟な精神を示すもの(理由は「バナナフィッシュ」読解にて)。
シェイクスピア作品には、いたるところに錬金術的なモチーフや発想が散りばめられており、それはグノーシス主義から受け継がれたものだといわれている。
聖書のイエスの受難のエピソードで、ユダは、金銭と引き換えにイエスを裏切り、磔刑に至る原因を作った人物。欲望にまみれた弱く汚れた心の持ち主として、一般的には悪者として語られることが多い。
しかし、グノーシス主義では、イエスを肉体からいちど解放したユダこそが最高位の弟子だと考えるという(S)。これを錬金術における対立物の一致という概念でとらえるなら、最も汚れた心を持つユダと、聖性の高いイエスこそが一致すべき、ということになるだろうか。
夢や神話では一人の人物が複数の異なる人格に分裂して現れたり、逆に複数の人物が一人の人間に圧縮されて出てくるという。
この考え方をあてはめてみるなら、ユダを、磔刑にかけられる前の若きイエスの中に残っていた、弱さや汚れを体現する人物として捉えることも可能ではないだろうか。すなわち、イエスが磔刑にかけられたのは、血を流し、象徴的に死ぬことで、イエス=永遠の少年の中にあったユダ的な部分、汚れや弱さや卑劣さを浄化し、より高次の存在として生まれ変わるために必要なイニシエーションの儀式が必要であったから。その意味では、イエスとユダは一体なのだと。だからこそ、イエスはユダの裏切りを事前に知りながら、それを防ごうとしなかったのだと。
さらにいえば、ユダとは、イエスの受難の原因となった民衆たち、イエスを信じる者とパリサイ人の中に残る、自らが正しく相手が間違っていると考える汚れや弱さ、あるいは信仰心の中にわずかに残る疑いの心、さらには、イエスの中にさえわずかに残っていた良からぬ性質を集約して背負わされた、負や悪の象徴なのではないだろうか。
だからこそ、イエスの死と復活、そしてユダの死によって、対立は解消され、信仰心は純化される。
イエスと同時に、ユダもまた、人々の中にくすぶる負の感情を浄化するためのいけにえ。こういう考え方は異端的なのかもしれないけれど、あえて分かりやすい言い方をしてしまうなら、イエスとユダは、それぞれがイエスを信じる者とそれに対抗するパリサイ人を代表するいけにえなのであり、両者は分身関係ともいえるのではないだろうか。
キリスト教絵画では、イエスを裏切る際のユダは、黄色い衣装を着せて描かれることが多い。ならば、『十二夜』でマルヴォーリオが履く黄色い靴下は、金銭に目がくらんでイエスを敵に渡したユダが纏う黄色い衣装。それを縛る十字の靴下留めは、ユダの策略にはまり、イエスがかけられた十字架。「あの阿呆のマルヴォーリオは異教徒に、本物の背教者になった」(105)という一節は、ユダの裏切りのモチーフを仄めかすものと読める。マルヴォーリオが黄色い靴下を履いて、十字の靴下留めをつけている姿は、イエスとユダが一体となって磔刑にかけられている姿を現しているのではないだろうか。
『十二夜』において、このシーンは、世俗的な価値観に凝り固まって、ひとりだけカーニバルに参加しようとしないマルヴォーリオを、強制的にカーニバル=恋の狂気に引きずり込む意味を持つ。真面目な執事が道化として持ち上げられ、徹底的にからかわれ精神的にダメージをこうむることで、彼が執着していた価値観は破壊され、生まれ変わらせられる儀式。これはユング派の神話学で、イエスの受難が意味すると考えるものとも一致する。
ユダは、汚れた心を抱えた未熟な人物であり、それはオイディプス神話やシンデレラのように、足元に表象される(詳細「バナナフィッシュ」読解にて)。シェイクスピアが複数の作品で繰り返し言及するように、それは象徴的両親によってはめられた、あるいは自らが自らにはめてしまった「足枷」(例えば『十二夜』_79)である。
下記で見たように、イエスの磔刑、神話やイニシエーション儀式では、大地に血を流すことが浄化を表す。
だから、マルヴォーリオの「血液の循環を阻害しますな、この十文字にしめた靴下留め」(111)というセリフは、現世的な価値観で凝り固まったマルヴォーリオの精神状態が、浄化されずに滞っていることを示していると読める。
さらに、『十二夜』では、金銭のやり取りが繰り返し描かれる(13・18・56・66・71・92・104・107・136)。最初は金銭に執着していた登場人物たちも、いたずらの面白さは「年金をくれるったって譲れませんね」「持参金はいらん」(87)と、物語の中で徐々にお金の価値よりもカーニバルの楽しさや幸福感の価値が上昇し、祝祭を通して世俗的な金銭への執着が浄化されていく。
最終的には、オリヴィアがマルヴォーリオに同情して「私の持参金を半分出してもいい」(113)といい、ヴァイオラも見ず知らずのアントーニオのために「いくらかご用立てしましょう」「半分わけしましょう」(130)と手持ちのお金を差し出そうとする。
道化が「良心をポケットに突っ込んで何食わぬ顔は悪いこと」(153)と締めくくり、自分が持っているものを誰かのために差し出して助け合う精神こそが大切だという道徳観が説かれ、最終的なハッピーエンドにつながっていく。
これは、聖書におけるユダの金銭を巡る裏切り、汚れた心を浄化しようという思想の現れとして読めないだろうか。少なくとも、サリンジャーはこれに近い読みをしているのではないだろうか。
『キャッチャー』のもとになったサリンジャーの初期短編「I’m Crazy. ぼくはちょっとおかしい」に登場するヴァイオラは、シェイクスピアの『十二夜』の主人公から取られた名前であろうと思われる。(詳細『キャッチャー』読解参照)名前以外にも、両性具有、イニシエーション、双子の離散に象徴される精神分裂、カーニバルなど、複数の作品で共通するモチーフが多く、サリンジャーが『十二夜』を意識していたことは間違いないだろう。
すると、『キャッチャー』で、ホールデンが「イエスはユダのやつを地獄には送らなかったはずだ」(170)というセリフは、上記のような思想から導かれたものではないだろうか。「エズメ」「大工よ」「序章」などの作品では、精神的にひどい汚れを持った人こそが、回心したときには最高の聖性を身に着けるという思想が繰り返し語られていく(詳細各作品読解にて)。この転倒は道化のアクロバットともいえ、『十二夜』の道化役マルヴォーリオにふさわしい。
「バナナフィッシュ」のバナナやシビルの水着や虎の黄色、他の作品でもたびたび登場する黄色は、汚れた卑しい心が纏っているときには負の意味を持つが、聖性の高いものが身に着けている時には神々しい光や輝きの意味へと転じる。十字の靴下留めは、「エズメ」で描かれる〈X〉の十字架からタータンチェックへつながっていく。
『十二夜』のマルヴォーリオの黄色い靴下と十字の靴下留めは、サリンジャーがさまざまな形で描く対立物の一致、聖俗一致、十字架や黄色に込められた意味を読み解く際の、重要なヒントになると思うのだ。
上記は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解の[ユダは地獄には送られなかったと考えるのはなぜか?]とあわせて読むことでより深くお楽しみいただけます。ぜひ、下記もご覧ください。
他のサリンジャー読解ともあわせてお楽しみいただければうれしいです。