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06_足を見るな_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察


 J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。

Q.06-1 シーモアが足を見られて怒るのはなぜか?

 「バナナフィッシュ」のシーモアが、神話のイカロスに重ねられることは下記で述べたとおり。

 一度飛び立ったら、良くも悪くも限界を思い知るまで高みを目指し続けるのが、神話における永遠の少年。彼らには、若者ならではのエネルギーと怖いもの知らずの自由かつ無謀な精神で、崇高で偉大なものへまっすぐぶつかっていく気概がある。その挑戦は、しばしば命をも散らせる危険をはらむ。だからこそ、唯一無二の輝きを放つ。けれど代償として、彼らは自分の足で地面を踏みしめ、現実の世界でしっかりと生きていく、安定した大人の能力を身に着けることができないままに、死んでしまう。
 永遠の少年とは、地に足がついていない者。シーモアについて語った「序章」の序盤で「鳥類」についての説明がなされている(128)のもそのため。立派な翼を持つ鳥の足は、細くて頼りない。
 この足元の頼りなさは、神話や文学において、永遠の少年を示す伝統的な象徴表現のひとつ。オイディプス神話の主人公〈オイディプス〉の名が、〈腫れた足〉を意味すること、それが『キャッチャー』で足を引きずるホールデンに重ねられることは、先行研究でも指摘されている(C)。漁夫王伝説の漁夫王や、シンデレラ、赤い靴の女の子など、昔話にしばしば登場する、足・脚が傷ついた物語の主人公はみなこの系譜。精神的に未熟な若者の不安定な心の中は、足元の揺らぎとなって現れる。

 〈腫れた足〉という名を持つオイディプスは、無意識のうちに父(王)を殺して母(王妃)を娶る息子(王子)の物語。フロイトはこれを、幼い子どもが親離れをするときに抱く、父母との三角関係における葛藤と重ねて、オイディプス・コンプレックスと名付けた。
 サリンジャーは、「序章」でフロイトは偉大な詩人であると記しており(138)、フロイトの影響とみられる表現も複数の作品に見られる(各作品読解にて示す)。
 サリンジャーは、象徴的な意味での両親(生物学的ではなく、より広い意味で、子どもの成長過程においてその役割を果たしたもの)からの影響や、そこに端を発する精神的な傷を持つ者=永遠の少年であることを示すために、足・脚の傷や、足を引きずるしぐさを描く。程度の差はあれ、基本的には誰もがオイディプス・コンプレックスを抱えている、ゆえに誰もがふとしたきっかけで、精神のバランスを崩しかねない、足を引きずる者になりかねないというのがサリンジャー作品の世界観だ。

 『キャッチャー』のホールデンが典型的な永遠の少年であることは、下記でみたとおり。

 ホールデンは、アックリーの部屋で「床に置いてあった誰かの靴を踏みつけてしまい、あやうく倒れて頭を打ち付けるところだった」(81)、寮を出ていくとき「どっかの馬鹿が階段じゅうにピーナッツの殻をばらまいていたせいで、あやうく首の骨を折っちまうところだったよ」(92)、「床に置いてあったスーツケースにつまずいて転び、あやうく膝の骨を折ってしまいそうになった。僕は肝心なときにかぎって、スーツケースか何かにつまずくようにできてるんだよ、ほんと」(160)と何度も転びそうになる。エレベーター係に対して脚を引きずるふりをし(266)、雪が凍って滑りやすい道路(12)や、スケートが下手だという記述(218)もある。そもそも、スケート靴が間違っている(91)など、ホールデンの足元は終始おぼつかない。
 初期短編「ロイス・タゲット」では、夫が妻ロイス・タゲットの足めがけてゴルフクラブを振りおろすことが、二人の離婚の原因となる。『ナイン・ストーリーズ』に収録されている「アンクル・ウィギリー/ひょこひょこおじさん」のタイトルには、戦地で死んだかつての恋人との美しい思い出と、現在の夫や娘との暮らしの間で揺らぐエロイーズの不安定な胸の内が重ねられている。「エズメ」では、チャールズが語り手の足を踏み、片足を引きずるようにして歩いてみせる。「序章」ではバディが象徴的な義足であると描かれ、アンデルセンの「赤い靴」にも言及される。「ハプワース」のシーモアは太ももに怪我をする。
 永遠の少年の心の揺らぎは、デビュー作から最後の「ハプワース」まで、サリンジャーが一貫して書き続けたテーマ。その表象として、足・脚の傷も何度となく使われている。

 「バナナフィッシュ」にもこれらのテーマが織り込まれていることは、ミュリエルと母親の会話で〈精神分析〉という言葉が使われていること、ミュリエルが精神分析のためには、「子供のころのこととかなんとか、そんなことをみんな知ったうえでないとだめなのよ」(18)と話すことから読み取れる。
 同時に、シーモアが帰還兵であることが示され、彼の精神的な不安定さは、戦争によって悪化したものであることが仄めかされている。『キャッチャー』「エスキモー」「エズメ」など、サリンジャー作品ではしばしば、オイディプス・コンプレックスの傷が、広く父親世代や学校、メディアなどを含む周囲の環境により形成された、戦争へ行って自国の勝利のために戦うべきだという価値観や、敵と味方に分かれて争うゲームに見立てられた大人社会と重なりながら現れる(下記参照)。神話や昔話から続く足・脚の傷の表現に、サリンジャーも従軍した第二次世界大戦で、実際に足・脚を負傷した多くの実在の兵士たちの物語が重ねられている。

 だから、「バナナフィッシュ」後半、シビルが「左手で左足をつかむと、二、三度片足跳びをやった」ことに対して、シーモアが「それで万事がはっきりした。きみが思いも寄らないほどはっきりしたよ」(27)という場面は、巫女がシーモアの不安定な精神状態を見抜いたことの表現ではないだろうか。
 また、シーモアがホテルのエレベーターで急上昇しているとき、これに比例して永遠の少年の自意識も過剰に高まっている([02_蝋は好き?]上記リンク参照)。精神的な揺らぎが最高潮に達したまさにその瞬間、ただ床を見ていただけの鼻に亜鉛華軟膏を塗った女に「あなた、ぼくの足を見てらっしゃいますね」(31)と言って激高するのは、女性に、バスローブでは隠し切れない足=自分の弱点が現れる場所を見られることで、過剰にふくれあがった自意識や未熟で不安定な精神状態を見抜かれることを恐れたからではないだろうか。

Q.06-2 シビルの足にキスするのはなぜか?

 『キャッチャー』にシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の影響がみられることは同作読解で述べた通り(下記参照)。

 『ロミオとジュリエット』もまた、足・脚にまつわる表現が印象的な作品。ロミオは恋煩いの苦しみを、奇妙にも「向こう脛の怪我」(31)と重ね、仮面舞踏会で踊りを遠慮するご婦人は足に「マメができているに違いない」(51)とからかわれ、ロミオの男ぶりは「脛ときたら/どんな男より素敵」(101)、「きれいな足とまっすぐな脛と震える太股に賭けて/ついでにその近くのご領地に賭けて」(63)と称えられる。さらに、最後の場面、悲劇を予感したロレンス神父が墓へ急ぐ場面では、「今夜は何度/この老いた足が墓につまずいたことか」(212)と嘆く。
 シェイクスピア作品において、領地は精神性の象徴。領地が足・脚と並べて語られるということは、『ロミオとジュリエット』において、足・脚もまた精神性を表す部位ということだ。
 同作で乳母は、ジュリエットが大地震の日に乳離れした(36)という思い出を語る。そして、「あのときはもうちゃあんと立っちしてらした。/そこらじゅうヨチヨチ歩いたり走ったり」して転び、おでこにコブをつくったジュリエットに、乳母の夫が「うつ伏せに転びなすったな?/もっとお利口になったら仰向けに転ぶんですよ」(37)「うつ伏せに転びなすったな?/年頃になったら仰向けに転ぶんですよ」(38)と繰り返す。
 
 繰り返す(笑)が、シェイクスピア作品において、領地・領土は精神性の象徴。だから、領地・大地が揺れる地震は、精神が激しく揺れたことの表現。また、シェイクスピア作品、それに影響を受けたサリンジャー作品では、精神的な分裂にまつわる記述は〈二度繰り返される〉ことは、下記で考察した通り。

 さらに、シェイクスピア作品には、母なる大地(本能)と天の父(理性)という対比も見られる(これについては別途まとめる)。大地震が起こった日に乳離れをしたという記述は、赤ん坊だったジュリエットの心の中がその日、激しい揺れを起こし、肉体的にも精神的にも母体と分離して、自我や自意識を持った一人の人間として自立した、その一つの成長段階を語っていると読める。これをオイディプス・コンプレックスが形成されるひとつの段階ということもできるだろう。
 母に支えられることなく、自分の足で立ち、ヨチヨチ歩けるようになると、子どもは自分の足で自由に歩き、走り回ることに喜びを感じるようになる。調子に乗って、どのくらい早く走れるか、どこまで高く跳べるか、自分の能力を試してみたくなる。これは、イカロスが太陽に向かって飛んでいくのと同じ状態で、自分の限界を超えるとイカロスが墜落したように、転んで痛い目を見る。
 乳離れしたばかりの幼いジュリエットは、まだほとんど知恵を持っておらず、母体や母なる大地、本能的な領域との親和性が高いから、転ぶときにはうつ伏せに転ぶ。やがて、「お利口になったら」つまり、知恵をつけて、ものを考えるようになったら、大地から離れ、イカロスのように高みを目指すようになる。太陽・神・父へと挑もうとする過程で、つまり、理性的な悩みで足をとられることが増えていくことを預言している。
 また、シェイクスピア作品では、しばしば、妻に浮気をされた夫が精神的に不安定になる姿を、額に角を生やすという表現で茶化す。ジュリエットは幼い女の子だが、おでこにコブをつくるという表現は、一角獣になることを表しているのだろう。
 「序章」では、シーモアもまた、一角獣だと表現されている。この説明は後述するが、精神的に不安定になることは、幻の獣になることだし、それは正気・実像を失って狂気におちいり、鏡像・イリュージョンの世界に入り込むことだ。
 
 『ロミオとジュリエット』の表現から推測できるのは、足・脚の怪我や傷が語られる物語の起源には、幼い子どもが母体から離れ、自分の足で立ち、歩き、走ったり跳んだりできるようになることの喜びがかかわっているらしいということだ。オイディプス・コンプレックスが形成されるのと同時期に、幼児は自分の足で立ち上がり、大地を踏みしめて、よたよたとおぼつかない足取りで歩きだすことを覚える。やがて、自分の思いのままに走ったり跳んだり踊ったりできるようになると、自我肥大に陥る。自分の能力の限界や、バランス感覚を知らない未熟な若者は、転んでコブをつくる。心や体に傷を負い、そのたびに自分の限界を思い知り、自分の能力を制御して使いこなす術を身につけ、成長していく。イカロス神話もまた、この感覚に通じる部分があるからこそ、太古から現代まで語り継がれているのだろう。
 さらにこれは、バベルの塔、下記で見たような、シェイクスピアが描く、未熟者が天を目指して建てる塔が象徴するものとも重なる。

 未熟な若者が天を目指して建てる塔は、母なる大地から受ける保護と束縛から抜け出し、重力に逆らって、高みにいる父へ挑もうとする意志・自我・自意識、あるいは生命力の象徴。同時に、自分の足でしっかりと立っていられる身の丈に合った塔=精神の城・内面世界を築け、足元がおぼつかないくせに天ばかり目指している塔は崩れるという教訓と戒めなのだろう。

 サリンジャーが表現する、子どもの足への少々病的なフェティシズムも、ここと結び付けて考えると腑に落ちる。(ここから先はいまのところ個人的な推測というか感想、裏付け文献探し中ですが、フロイト的な解釈よりもう少し広くとらえる方が、シェイクスピア作品やサリンジャー作品で描かれる足・脚の意味がより分かりやすくなると思う。他にも、例えば、ウォン・カーウァイ監督の映画の〈脚のない鳥〉と女性の脚、ハイヒールの表現なんかもこれで説明できるし、金城武がエプロンにケチャップを落として銃に撃たれたふりをする場面なんてそのままホールデンだし。これもいつかまとめたい)
 サリンジャーは、初期短編「ふたりの問題」や、「ハプワース」でも、子どもの足の可愛らしさについて言及している。子どものゆがみのない足を、純粋な精神性の象徴として讃え、大人の足のゆがみを、オイディプス・コンプレックスを負い、ひねくれてしまった精神性のしるしとして対比している。
 この表現から思うのは、幼いころに(おそらくはオイディプス・コンプレックスに関連する)精神的な傷や固着のようなもののせいで、少々ひねくれてしまった永遠の少年的な心を持つ者は、自分の精神的なゆがみや不安定さを、足元の不安として感じるケースがあるのかもしれない、ということ。そのような感覚が、オイディプス王のような神話やシンデレラなどのおとぎ話を生み、その発展形として、子どもや女性の脚・足、あるいはハイヒールなどを崇めるような感覚・表現が出てくるのかもしれないということだ。

 「バナナフィッシュ」で、若い男がシビルと泳いでいるときに「浮き輪から垂れているシビルの濡れた足の一方を若い男(シーモア)はいきなり手にとって、その土踏まずにキスした」(33)という場面も、このバリエーション。[03_NYの広告マン](下記参照)で述べたように、シビルが砂のお城を踏みつける描写を、シーモアの自我を蹂躙する仕草と読むなら、ここにもまた別の意味が加わってくる気がするのだが、いかがだろうか。

Q.06-3 ミュリエルのドレスが長すぎるのはなぜか?

 前半でミュリエルが母と電話をしながら「脚を組んだ」(14)り、「右脚に体重をかけた」(21)りするのは、ミュリエルもまた、オイディプス・コンプレックスを抱えた娘であることの表現。母親との低俗な世間話や、「昨夜お父様が言ってらしたんだけど、もしもあんたが一人でどこかへ行って、よく考えてみるというんなら、そのお金ぐらいお父様は喜んでお出しになるのよ」(19)という言葉から伝わるミュリエルの父の、シーモアへの批判的な感情が、ミュリエルの心を不安定にしているのは明らかで、それがミュリエルの脚元の揺らぎに表されている。
 サリンジャー作品において、右は意識の領域、左は無意識の領域(この説明は別途まとめる)。シビルもミュリエルも左足を上げて、右脚に体重をかけているのは、現実の世界における象徴的両親の影響下で形成された価値観に足をとられていることの表現だろう。

 また、『キャッチャー』では、ホールデンのガールフレンド、ジェーンが義父との関係において精神的な傷を負っていることが仄めかされるのと同時に、バレエの練習を熱心にしていたことが語られる。バレエの美しさはトゥシューズによる足の痛みと、卓越したバランス感覚の上に成り立つものだ。
 「ふたりの問題」や「ハプワース」で、サリンジャーが子どものゆがみのない足をたたえ、大人のゆがんだ足と対比していることは前述のとおり。纏足やハイヒールを履く生活を強いられなくとも、成長とともに多かれ少なかれ足はゆがんでくるものだ。サリンジャーは、バレエという言葉を、そんな成長に伴う足のゆがみを喚起させる記号として、特に少女や若い女性のオイディプス・コンプレックスの象徴として用いる(むろん実際にバレエで足が歪むかは、練習方法や体型によりさまざまだろうが、あくまで小説の表現として)。
 だから、前半でミュリエルが持っているバレリーナと呼ばれるドレスが「長すぎる」(19)といわれるは、彼女の中にある精神的な傷、未熟で不安定な、バランスの悪い心の内や、そんな精神性が現れる足を隠したいという思いを表現しているのではないだろうか。
 ミュリエルに対し、既婚女性には不自然にも感じられる〈girl 若い女性〉という言葉が使われているのも、象徴的な両親の価値観に束縛された未熟な娘としての面が強調されているから。シーモアが〈the man〉ではなく〈young man 若い男〉なのもまた、彼の未熟さ、永遠の少年性を強調するためであろう。

Q.06-4 シーモアが水に入るか「真剣に」悩むのはなぜか?

 足・脚の怪我や片足立ちは同時に、此岸=この世と、彼岸=あの世に半分ずつ足を踏み入れていることを意味する。「バナナフィッシュ」が海辺を舞台としているのも同じ理由。サリンジャー作品において、陸は現世や意識、海・水中は冥界や無意識の領域を表し、シーモアはその両方を行き来する存在。鏡の世界に半分足を踏み入れて、此岸と彼岸を揺らいでいる人物である。ナルキッソス神話で主人公が呑み込まれる泉にも、同じ意味が読み込めるだろう。それは永遠の少年が母なる大地・海・水中=生まれてくる前の彼岸に還ることを意味する。
 若い男に、シビルが「水に入らないの?」と問いかけるのは、死ぬことについて考えているのかと問うことと同義だし、シーモアが「そいつをいま真剣に考えてるとこさ。大いに考慮してるとこだ——と聞いたらうれしいだろう、シビル I’m seriously considering it. I’m giving it plenty of thought , Sybil, you’ll be glad to know.」と答えるのは、シーモアがシビルの言葉の含意を理解しているということだろう。
 シーモアのこの迷いは、シェイクスピアの『ハムレット』にある有名なセリフ「生きてこうあるか、消えてなくなるか to be or not to be」(『ハムレット』松岡和子訳、ちくま文庫_119)と同じものだ。シーモアとハムレットにも多くの共通点があり、重ねて読んでいくと面白い。これについても改めて。



 J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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