仕事をしてても子育てしてても「心は自由」
長男が学校に行かない選択をしたとき、私は親として何をするべきかってとっても悩んで。
だって、学校でやってくれることっていっぱいある。
人との関わり、アカデミックな教育、自己表現の積み重ね、日々のコミュニケーション、集団活動、健康診断、成績評価、他にもいろいろ。
とてもじゃないけど、親に全ては無理。
途方に暮れていたときに出会った言葉があって。
「子どもの心を元気にすることをいちばんに考える」
ああ、これなら私、できると思う。
仕事でも、それならできるって思って関わってるくらいだもの。
発達特性のある我が子への支援
我が家には発達特性のある子どもが3人いる。
知的水準がやや高めで、しかも凸凹が大きいASD気質の長男。
人との関わりは苦手だけれど考えることに関してはピカイチで。
本人の希望で個別支援級に在籍し、マイペースに登校していたものの、個別支援級が30人近くになり、「個別でもなんでもない」と学校に行かない選択をした。
人は10人以下が鉄則。
ひとりでも十分に学べる力はあり、ネットスクールで学び中。
主治医からはメンタルコントロールを第一に、と言われていて、安心できる生活のベースをやっとつくれたところ。
思慮深い長男だから、自分のことは自分で考えて自分で決める…それを大切にする環境を用意してる。
知的水準は普通だけれど、ADHD+ASDの次男。
理解がかなり弱く、社会のルールがなかなか定着しない。
衝動性がある一方でかなりのビビリマン。
その性質に社会のルールの理解がついてこないから、どうしても問題児扱いされてしまう。
学校ではひょうきんで危害を加えるようなタイプじゃないからか、割と人気者。
早退で迎えにいくと、お友だちが群がってくる感じ。
一時、精神不安定なときは包丁を持ち出したことがあり、教育相談の上、学校との連携を強化させてもらった経緯あり。
勉強の理解、社会性の理解への配慮が必要。
私としては親子の関係を大切にして、困っていることへのサポートやルールの理解を促したりする機会を持てるようにしてる。
そして、大好きな爬虫類を死ぬほど愛せるおうちの環境を用意すること。
三男は知的な遅れがあるASD。
言葉でのやりとりがやっと少しできるようになってきたな、という程度。
とても素直で、朗らかなタイプ。
「無理をさせない、この子のペースで少しずつ」を大切に、幼稚園でも配慮してもらってる。
この子のペースを大切にすると、とても安定して成長するんだなって実感する。
この子の目標は、集団適応でも学校に行けることでもない。
自分のペースで毎日生活できることなんだと思う。
幸い、今の幼稚園では無理させずに少しずつトライさせてもらってる。
でもできないならできないでいいと思う。
発表会で隅っこにいて見てるだけでもいいと思う。
やりたいって思ったら入ればいい。
今は数字にも興味があるし、スマイルゼミでいろんなルールを学んでいるけれど、この子にアカデミックな教育は必要なのだろうかって感じてる。
物を操作するのが好き。
そのスキルを高めていって、そんな好きが仕事になればこの子は多分幸せなんじゃないか。
知的に遅れがあっても成長はする。
でもその子のスピードや発達レベルに合った環境は大切。
入学の少し前に考えたらいいとは思うけれど、私はきっとフツーの小学校は選ばない気がする。
本人が行きたいと言えば別なのだけど。
そんなふうにいつも私にできること、親としてやるべきこと、誰かにお願いできること、いろいろ整理しながら生きてる。
言葉に何度もして、面談で話して、noteで伝えて…少しずつ自分に大切なことが見えてくる。
私が大切にしたいこと
子育ての目標ってなんだろう?
経済的、精神的、社会的自立?
確かにそうなんだけど、そこを目指すためにアレコレ頑張るってなんか違う。
自分の子たちにはすごく違和感。
結果的にそうなればいいよねって感覚の方が近いな。
それよりは多分、今この時間を楽しんでほしいし、生きてる!って実感してほしい。
そのために私がどんな環境を作ってあげられるか、そこが大切なのかなって今は感じてる。
夫が昨日、ポロリとつぶやいたのね。
「帰ってくると、みんなが出迎えてくれて、ホッコリした姿を見せてくれる。
これが何よりも嬉しい。
自分が欲しかったのは、こんなささいな感覚だったんじゃないかなって思う。
子どもひとりひとりが味わいあって、らしいなって思うことに取り組んでる。
そんな日常が今はとても嬉しい。」
ああ、そうか。
私はいつも夫のひと言にハッとさせられる。
そうだよね、こういう日々を過ごせることがそもそも大切なんだよね。
時間がかかったけど、夫らしさ、私らしさ、長男らしさ、次男らしさ、三男らしさが全てまぜこぜになった毎日。
それぞれがそれぞれの時間を楽しみ、時々家族との時間を大切にする。
私はみんなが元気でいられる環境を整える。
私が元気でいられるようにみんなに働きかける。
困ったときはみんなで考える。
家族のバランスが崩れたときは調整する。
家族がそれぞれ安心して過ごせるようにルールを決める。
そういうことでいいんだ。
みんなが元気で楽しめて、笑顔でいられて、しんどくなってもエネルギーを蓄えられる、そんなおうちをつくれたらいいんだ。
アレもコレもたくさんやらなくていいんだ。
なんか背負ってたもの、少し手放せた気がする。
だってちゃんと仕事ができるようにとか、社会人として立派にやれるようにとか、ちょっと重たかったんだもの。
そんなの成長していく中で一緒に考えたらいいもんね。
今からそのために少しずつタネを撒いておくのはいいけれど、アレもコレも必要ってやらせなくてもいいんだよね。
「ちゃんとママをしなきゃ」を手放す
もう何度も記事で、ちゃんとしなきゃを手放そうと言葉にしてきた。
その度に少しずつゆるんでいって。
同じようなことを記事にしているようだけど、私の中では全然違うの、感覚が。
ああ、そうなんだよね、それでいいんだよねって実感を持って手放せることが増えたもの。
そして、それができたときは子どもたちへの言葉が全然違ってくる。
最近は私が緩んだから、子どもたちものびのびしてる。
いや、のびのびは元々してたんだけどね、子どもたちから出てくる言葉も変わってきたのよね。
とても論理的に考えを伝えてくれたり、お願いって頼んだことへの反応が早い。
自分のあり方って大事だよなぁーってね、最近思うんだよね。
「何かをする」よりも「どうあるか」の方が影響力がある。
ちゃんとママをしようとしなくていいんだよね。
私は私の人生を生きる、という覚悟をベースに持ち、家族や周りの人たちとどんなふうに関わっていくかを大切にする。
そういう意識になったら、とっても心が軽くなって、ラクで、苦しくないよ。
うん。
「心が自由」ってこんな感じなのかな。
ルールに従って社会で仕事をして、わけわからんことばかりする子どもたちに振り回されながら一緒に生活をする…だけど、心は自由って心地よい。