上野千鶴子さんの祝辞で受けとったもの
先日の平成31年度東京大学学部入学式での上野千鶴子名誉教授の祝辞が、イマドキの言葉で言うならバズってましたね。内容については、下記記事を読んでいただければと思います。
また、実際に親としてその場に居た方が感じた記事がこちら↓
で、私は、もちろん、現場(?)に居るはずも無いので、祝辞を「聞く」ではなく、「読んだ」わけなんですが、これって、男性と女性でも受け取り方は違うだろうなぁと思いました。
やっぱり、女性って今まで、家の中でも「女の子だから片付け手伝いなさい」とか「お兄ちゃんは男だから大学まで行かせるけど、貴女は女の子だから大学には行かせられない」(←アタシだーw)とか、就職しても女性社員はお茶くみをさせられたり、どんなに仕事を頑張っても役職がつかなかったり、という不利な扱いをずーっと受け続けてきたわけで、平成が終わろうとする頃やっとそれが是正されつつあるけれど、その抑圧されてきた気持ちはどんなにフェミニストな男性でも真に理解はできないだろうと思うので。
ま、片腕を失った人の気持ちは、そうなった人にしかわからないのと一緒ってことですかね。
そういう意味で、上野さんの祝辞は重い言葉だと思うし、社会に突き付けたものだと思う。そういう祝辞ってどうよ?って思う人も居れば、そう思わない人も居るんでしょうねー。あんだけの人数が集まっているんですもの。
でも、実は、私が胸を突かれた言葉はそれらではなくて、
大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。
と、この部分だったのですよねー(^_^;) それをFacebookに投稿していたのですが、しかし、世間では「社会にはあからさまな性差別が横行している云々」がバズっていて、あ、アタシちょっとズレてるのかなと若干凹んでおりましたw。そしたら、お友だちが「学びについて言及しているこっちに反応するのは私たちが学びを今も継続しているからじゃないか」とコメントくれて、共感してくれる人が居てよかったーと思ったところでした。
学びを継続しているから、私たちのフックはソコに引っ掛かった
読み手によって受け取り方も様々ですね。