
人間が肉体という名の牢獄から解放される日はいつ訪れるのか
肉体に関する悩みは尽きない
その昔、プラトンは著書『パイドン』の中で「肉体は魂の牢獄である」いう考えを記したが、我々の意志や心の安定さは肉体に大きく依存している。ユウェナリスの『風刺詩集』では「祈るべきは、健全な肉体に健全な精神が宿ることである」と詠われているが、時代とともにその内容が「健全な精神は健全な肉体に宿る」という意味合いに捉えられてしまったのも、肉体が健全でないと健全な精神を保つことの難しさを、人々が歴史の過程で嫌というほど感じてきたからであろう。
肉体に関する悩みは尽きない。
アドラー心理学では「人間の悩みのほとんどは対人関係に起因する」とあるが、肉体に関する悩みも非常に多く、その悩みによって対人関係の問題も発生していると私は考える。
体調が精神に及ぼす影響
例えば、朝から体調がすぐれない日。それは風邪気味なのかもしれないし、持病のせいかもしれないし、はたまた前日の暴飲暴食のせいかもしれない。
理由は何であれ、朝から体調が優れないにもかかわらず、無理をして会社に行ったり、学校に行ったりしたとしよう。普段と同じように周囲の人と接することができるだろうか。いつもと同じ機嫌、テンションで受け答えをすることができるだろうか。普段だったら受け流すような嫌味や挑発、ニュアンスの取り違えに対し、平静な気持ちでいられるだろうか。やり返したり、感情的にならないように自分をコントロールできるだろうか。
きっと難しいと思う。
職場で体調がすぐれない人が不機嫌で、周囲に当たり散らしたり、受け答えが適当であったり、感情的になって、時には攻撃的になって相手をやり込めている人の姿を私はこの目で何度となく見てきている。人間なんだからしょうがない、いちいち気にしていたらキリがない、そう思ってはいるものの、目にしたこととしては否定できない。もちろん、自分にも当てはまる。そして皆と同じように、その後自省し、気分は沈む。
体形が精神に及ぼす影響
風呂に入る前の洗面台の鏡、あるいは浴室にある鏡に映る自分の姿も精神に影響を及ぼす。太っている人、痩せている人、中肉中背の人、どのような人であっても、自分の理想の体形は頭の中にうっすらとあるはず。そしてそのうっすら描いている体形と現実のものが一致している人はそうそういないのではないか。毎日厳しい食事制限をし、激しいトレーニングにいそしんでいるボディビルダー、ボディメイカーであっても、理想の体形を追い求めて自己否定と自己肯定を日々繰り返している。
そして、理想の体形と現実とのギャップが我々の心を様々な形で悩ませる。お付き合いの飲み会が近頃増えてお腹が出てきた、運動・トレーニングをしていないから体のラインが崩れてきた、もともと骨太で足が太く見えるのが悩みだ、猫背を直したいが何から手を付けたらよいか分からない、などなど。そういった悩みが自己肯定感を日々下げていく。
美容が精神に及ぼす影響
近年、日本のルッキズムが激しい。お隣の韓国ほどではないかもしれないが、国内や韓国で美容の施術を受ける人々が男女ともに増えていると感じる。百田尚樹氏の『モンスター』には、見た目の美醜に囚われることの苦しさが、裸体にまとわりつく無数のおぞましいヒルのように表現されている。美しさの追求に終わりはない。常に、まだ足りない、どこかバランスがおかしい、自分の美醜に対する得も言われぬ不安や嫌悪感がまとわりつく。払い落としても、払いきれない。払わずにいると、その不安や嫌悪感が精神を蝕み、生きる活力を吸い取っていく。終わりはない。たとえ、一時の絶頂を手に入れたとしても、老化という下り坂がすぐに訪れる。後はどのように抗うか、あるいは受け入れるかだ。
最後に病
何よりも大きいのは病。コロナ禍が本格化した2020年、我々はどのような心持ちで日々を過ごしていただろうか。罹患への不安、重症化の恐怖、落ちゆく経済への懸念、政府・自治体の対応への不満、マイナスな感情が日々マグマのように渦巻いていた。でも、その時は共感できる人々が周囲にいた。そして、我々は苦難を乗り越えることができた。
では、個人で戦う病はどうか。
なかなか治らない難病、治ると言われているが大きな手術を必要とするもの、認知症、精神的な障害、身体の機能の衰え・老化、枚挙にいとまがない。中村天風氏は『成功の実現』のなかで、身体が病んでも心まで病ませる必要はないと説いた。正しいと思う。ただ、併せて書いてるようにそのことを実現できる人は稀である。また、身体だけでなく、心を蝕む病もある。
では、どうするか
私は人類が肉体を捨てる日がやがて来ると思う。
映画『トランセンデンス』で描かれているような世界だ。
この世が現実世界か仮想世界かなんて、誰にも分からない。
『われ思う、ゆえにわれあり』と説いたデカルト以来、考えごとをしている自分が存在すること以外、何も存在することを証明できないという状況に変わりはない。映画『マトリックス』は、その表現形態の一つだ。
人間の「意識」のメカニズムはまだ解明されていないが、解明された後に、サイバー空間に意識のアップロードができる日は必ず来る。人間の脳はニューロンを媒体とした電気信号で機能しているのだから。
そして、サイバー空間に意識を転送し、晴れて肉体という名の牢獄から解放された人類、結果的に不老不死を得ることのできた人類は、新たな問題に直面することになる。
それは、「意識はいつ終わりを迎えるべきか」という問題。
つまり、人間は「いつ死ぬべきか」を決めなくてはならない日がくる。