吉弥結びのふ・し・ぎ
前回、夏きもので増上寺盆踊りに行った話を書きました。
このとき、久しぶりに半幅帯を締めてみて、半幅帯って軽くてラクだなぁと、あらためて感じた次第です。
ふだんは名古屋帯をお太鼓結びで締めているのですが、半幅帯は帯枕を使わないので、帯揚げもなし。
帯枕というのは、お太鼓の山の形を整え、帯を支えるために使います。
帯揚げは、その帯枕の紐を隠し、美しく装うためのもの。
帯枕と帯揚げは、お太鼓結びになくてはならない必須アイテムです。
そんな名古屋帯のお太鼓結びとくらべて、帯枕も帯揚げも使わない半幅帯は、帯まわりのアイテムが少ないため、背中が軽くて涼しいわけですね。
吉弥結びと出会う
きものを着てみようと思い立ったとして、いきなり名古屋帯や袋帯ではハードルが高すぎるので、まずは半幅帯から始めるかたが多いと思います。
わたし自身も、母から最初に教わった結び方は、半幅帯の文庫結びでした。文庫結びというのは、江戸時代に武家の女性たちが結んでいたもので、時代劇でもよく見かける結び方ですね。
半幅帯から始めたわたしの帯結びチャレンジですが、文庫結びのつぎに覚えたのは、半幅帯の変わり結びであるみやこ結び(リボン返し)でした。
それから名古屋帯のお太鼓結び(一重太鼓)を覚えて、つづいて袋帯の二重太鼓を練習し、最後は袴の着方も習いました。
お太鼓を自分で結べるようになると、名古屋帯がコーデの中心になり、半幅帯を手に取る機会は自然と減ってしまっていました。
それがここ数年、とある時代劇を見たことがきっかけで、半幅帯の結び方を新たに覚えようと思い立ち、少しずつ練習しています。
映画『3月のライオン』のロケ地、南昌荘へ!
着付け講師すなおさんの解説動画を見ながら、新たに覚えた帯結びがこちら。↓↓
この折り紙をたたんだようなぺったんこの結び方は、一般的に、吉弥結びと呼ばれています。
吉弥結びについては後述するとして、この日のコーデは、母譲りの注染の木綿浴衣を夏きものスタイルで着ています。
浴衣を夏きもの風に着るときのポイントは、襦袢を着ることと、足袋をはくことです。
この昭和レトロな注染の浴衣に合わせているのは、江戸琳派の絵師である鈴木其一の「朝顔図屏風」から図案をとった木綿の半幅帯。
大阪船場の居内商店さんのお品で、デジタル捺染という新しい技法で染められたものです。
居内商店さんは「ゴフクヤサン・ドットコム」という商号ですが、文字通りの意味の「呉服屋」ではなく、今や希少な存在となった「太物屋」さんなので、ふだん着物を楽しみたいというかたにおすすめのお店です。
「呉服」はもともと絹織物の高級な着物を指す言葉で、木綿や麻織物など日常着の着物は「太物」と呼ばれて、はっきり区別されていました。
こちらの美しい庭園は、岩手県盛岡市に位置する南昌荘のお庭です。
南昌荘は、秋田県の荒川鉱山の経営で財をなし、「みちのくの鉱山王」として知られた明治の実業家・瀬川安五郎の邸宅として、明治18年(1885年)に建てられた近代和風建築です。
南昌荘と言えば、映画『3月のライオン』(羽海野チカ原作)で、桐山零くんと宗谷名人が対局する場面の撮影場所として有名ですね!!
映画の監督を務めた大友啓史さんは、盛岡市のご出身だそうです。
2020年の夏にわたしがここを訪れたとき、地元のご婦人がたに着姿をほめていただけて、とてもうれしい思い出がのこりました。
声をかけてくださったご婦人がたは、句会のために集まっていたそうです。
趣ある南昌荘で保護庭園を見ながらの句会というのは、イマジネーションが湧きそうで、ぴったりですよね。
不思議なことに、きものを着ていると、見知らぬかたから気さくに話しかけられる率が高くなるのです。
フレンドリーな雰囲気でも出ているのでしょうかね。
吉弥結びにあこがれたきっかけ
先日、増上寺盆踊りに行ったときの帯結びも、南昌荘を訪れたときに結んでいたのと同じ、吉弥結びでした。
わたしがこの吉弥結びを結んでみたいと思い立ったきっかけが、2018年にNHKBSで放送されていたドラマ『鳴門秘帖』(吉川英治原作)です。
ドラマ『鳴門秘帖』に登場する、見返りお綱役を演じる野々すみ花さんの着姿に、胸撃ち抜かれてですね!
彼女のすっきとした帯結びを、わたしもまねしたいと思ったわけです。
ちなみに、千絵役を演じた早見あかりさんの着姿も、武家のお嬢さまらしい、初々しく華やかな装いで素敵でした。
この野々すみ花さんの帯結びを見て、今で言う「吉弥結び」がいちばん近いのではないかと考えました。
そういうわけで、一級着付け技能士である、すなおさんの解説動画を見ながら、吉弥結びにチャレンジしました。
この解説動画では半幅帯を使った吉弥結びが紹介されていますが、見返りお綱役の野々すみ花さんは、広幅の帯を使って吉弥結びに近い結び方をされていますよね。
今のところ、わたしは半幅帯を使った吉弥結びしか試したことがないので、名古屋帯を使って吉弥結びを結んでみれば、あこがれの野々すみ花さんの着姿により近づくのではないかと想像しています。
吉弥結びの謎を追う
吉弥結びと言ったら、必ず名前があげられる作品があります。
江戸前期の絵師である菱川師宣の「見返り美人図」です。
この美人さんの帯結びが、「吉弥結び」だと言うのが定説なのです。
あれれ、すなおさんの解説動画で紹介されている「現代の吉弥結び」と比べて、結びあがりの形がかなり違いますよね!?
「見返り美人図」で描かれた結び方が「吉弥結びの原型」だと考えると、一体どういう進化をたどって、現代の吉弥結びの形に変化したのでしょうか。
「吉弥結び」はもともと、江戸前期に京で活躍した歌舞伎の女形である初代上村吉弥が、17世紀後半に考案した帯結びです。
江戸初期に流行った「歌留多結び」という結び方を改良したもので、五寸帯を使い、後ろで片輪結びにして、帯の両端に鉛を入れて垂らした結び方だったそうです。
したがって、同時代に描かれた「見返り美人図」は、初代上村吉弥流の結び方ということになります。
この初代上村吉弥流の「吉弥結び」と似た系統の結び方を、江戸の人々は「やの字結び」と呼んでいたそうなのです。
同じ結び方であっても、東日本と西日本でそれぞれ違った呼び名で呼ぶというのは、現代でもよくあることですね。
18世紀後半には、初代上村吉弥流の帯の両端に鉛を入れた結び方は廃れてしまいましたが、「吉弥結び」という呼び名だけは残って、その後も形を変えて生きつづけます。
19世紀初めには「腰元結び」と言う、現代の「立て矢結び」に近い結び方が、「吉弥結び」とも呼ばれていたそうです。
すでに初代上村吉弥が考案した吉弥結びとは、全く異なる形になっていますね。
なぜ「腰元結び」が「吉弥結び」とも呼ばれたのかと言うと、この「腰元結び」が「やの字結び」のバリエーションだったからなのだそうです。
帯の結びあがりの形やそれを指す呼び名が、時代とともにどんどん変化していき、現代に至っているわけですね。
現在、「吉弥結び」と検索すると、すなおさんの解説動画で紹介されている形の帯結びが最初にヒットします。
この現代の吉弥結びと、結びあがりの形が似ている帯結びが「矢の字結び」と「後見結び」です。
「後見結び」は、もともとは日本舞踊の舞台で後見役を務める人が結んだことから、この呼び名があると言われています。
舞台における後見人とは、踊り手に小道具を渡すなどサポートをする役な
のだそうです。
年少芸妓である半玉さんたちの着姿を見ますと、この後見結びをよく結んでおられます。
年少芸妓のことを、京都では「舞妓さん」と呼ぶのに対して、関東では「半玉さん」と呼びます。
芸妓の世界では、一般的に「後見結び」と呼ばれる結び方を「お酌結び」と呼ぶのだそうです。
「だらり結び」の帯が舞妓さんの代名詞であるように、半玉さんのトレードマークが「お酌結び」なので、半玉さんは別名「おしゃくさん」とも呼ばれています。
江戸末期創業で舞台衣装がご専門の北徳さんは、この「お酌結び」の別名を「後見結び」「吉弥結び」と紹介していました。
ややこしくなってきましたので、一行でまとめます!
見返りお綱役の野々すみ花さんの帯結びを見たとき、人によっては「吉弥結び」と呼ぶ人もいるし、「矢の字結び」と呼ぶ人もいるし、「後見結び」と呼ぶ人もいて、それらはどれも正しいということですね。
最後までお読みくださり、どうもありがとうございます。
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