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書く仕事を2度諦めかけた私がライターになった話


接客業で感じた「もっと多くの人に届けたい」という想い


「転職したとしても、またこの仕事がしたいな」

地元の同級生との飲み会で本音がぽろっとこぼれた。それくらいにはやりがいをもって働いていた。

私は大学を卒業後、新卒で食品メーカーに入社し、直営店で勤務していた。入社時はちょうど会社が事業を拡大していて出店ラッシュのさなかだったこともあり、私は1年目から店長を任せてもらえた。

自分が提案した商品をお客さんに喜んでもらえるのはうれしいし、売上管理から販売スケジュールの作成、人員採用まで任せてもらえて裁量高く働ける。赴任当初は安定しなかった売上も、2店舗目では本社から決められた予算を数カ月連続でクリアできるようになっていた。

ところが入社して数年、店舗で販売の仕事を続けるうちにある想いが芽生えてきた。

自分が「いいな」と思ったものを、目の前にいるお客さんだけでなく、もっと広く、大きい規模で届けたい。
もしかしたら、記事を書いて読んでもらえばより多くの人に届くかもしれない。

そんな想いに加えて、この先のキャリアプランが見えなくなっていたのも事実だった。このままずっと店長を続けていくイメージが湧かない。かといって本社は地方にあるし、本社業務に異動となれば引っ越さないといけない。私はできるだけ自宅のある東京で働きたい。

運よくたどり着いた広報課


「転職」という言葉が頭に浮かび始めた矢先、コロナ禍に突入した。日頃の疲れや慣れない生活様式のストレスが重なったのかもしれない。体調を崩して夜間に救急外来を受診し、そのまま検査のために数日間入院することになった。

病室のベッドに横たわった私は、灰色の天井を見上げながら考えた。


もしこのまま退院できずに、ずっと病室で過ごすことになったら―。


身体が弱っていると心まで弱り、悪い妄想ばかりが膨らんでいく。


「書く仕事」に挑戦しないまま過ごして、人生最後の日に後悔しないだろうか。

昔から読書や作文は好きだったけれど、今考えればこの時から私のライター人生は動き始めたのかもしれない。

当時、社内で「書く仕事」といえば真っ先に思いついたのが広報だった。
退院後、上司との面談で「実は広報に興味があるんです」と伝えると、運よく広報課に異動させてもらえることになった。

ずっと店舗で働いてきた私にとって、広報に異動してからは毎日が新鮮だった。
経営層やメディア関係者、社内から社外までさまざまな人と関わる日々。自分が関わった記事が世に出る達成感。

原稿にはたくさん赤が入ったし、簡単な仕事ではなかったけれど、やりがいとともに「書く仕事って楽しい!」と充実した気持ちで過ごしていた。

「書く」以外のハードル


だけど、そんな広報生活ももちろん順風満帆とはいかなかった。

まず、私は電話が苦手だった。
広報の業務は書くこと以外にも、電話による社内外の人との折衝業務が想像以上に多かった。

それから、部署異動に際してちょっとしたトラブルがあった。

私は異動前の面談で、本社エリアではなくできれば自宅のある東京で働きたい旨を伝えていた。ダメ元で言ってみたものの、会社からはあっさり承諾してもらえた。

「そんな都合のいいことあるんだろうか」と疑問に思いながらも異動をして数日後、総合職よりも基本給が下がる「地域限定職」に変更されていたことが判明した。予期せぬ減給の知らせに呆然とした。

それでも仕事自体は楽しかったから、やりきれない気持ちをどうにか抑えながら目の前の仕事に取り組んだ。しかし数カ月経ってやはり気持ちに折り合いを付けられないまま、心身の不調が重なった。

「このままではいけない」と転職することを決意した。

かねてからの希望であった「書くこと」を軸においた転職活動は苦戦が続いた。広報やライター、マーケティング職に応募しても、届くのは不採用通知ばかり。もしライターになれたときに役立つようにと、やむなくIT系の事務職に転職した。


「やっぱり、出版社や新聞社での経験がないとだめなんだ」


諦めかけていたところに、知人から一通のメッセージが届いた。

「スクールの卒業生インタビューを書いてくれる人を探してるんだけど、興味ある?」

私は転職にあたって学生や若手社会人向けのキャリアスクールに参加していた。そのスクールの卒業生インタビューを作る運びになり、縁あって私に声がかかった。
願ってもないチャンスを私はありがたく引き受けた。

転機となった「インタビュー」を書く経験


インタビューの経験は私の視野を広げてくれた。

スクールに参加する人の目的は実にさまざまで、転職や起業のために参加する人もいれば、人生やキャリアに漠然と悩んでいるのでどうにかしたいという人もいる。

学歴も職歴も優秀で一見完璧に見える人でも、他の人が気づかないところで対人関係の悩みや幼少期のトラウマ、コンプレックスを抱えていることもある。
そんな悩みや葛藤とどう向き合ってきたか、スクール参加前の状況や受講中の心境、受講後の変化をメインに取材し記事にまとめる。

インタビューと記事の執筆を通して私は確信した。

その人が悩み、乗り越えた方法をシェアすることは、同じように悩んでいる人の助けになる。
記事を読むことを通して他の人の人生を追体験でき、心が豊かになる。

想いのこもったインタビュー記事には、人生を変えるほどの力がある。


記事が一件完成すると次のインタビュー、また次と依頼をもらった。
そのうちの一つはスクールのオーナーの方から「神インタビューだね!」と絶賛され、PVは1,000を超えた。

(その記事がこちら)

私にはライターとしての実績が何もなかった。それでも声をかけてもらえたのは、もちろん独学で勉強もしていたけれど、私自身がスクールに参加している最中も「ゆくゆくは書くことを仕事にしたい」と周囲に話していたからだった。
思い返せば、広報に異動させてもらえたのも自分の意思を上司に伝えたからだった。

実績も自信もなかったけれど、想いを口に出したことでチャンスが舞い込んだ。

走り出したライター業

スクールの卒業生インタビュー以外にも、個人でもインタビューライティングのサービスを始めた。

せっかくなら、自分が好きで得意な分野で役に立ちたい。そこで「食のインタビュー」と題して、飲食店のオーナーやフリーランスの管理栄養士など、食ジャンルの事業を展開する経営者やフリーランスの方に、事業を始めたきっかけや原体験となるできごと、事業にかける想いを聞き、記事にまとめた。

それ以降も書籍を買って勉強したり、自分の書いた記事をライターコンサルの方に添削してもらったりして、さらにスキルを磨いた。

そろそろ本格的にライター業にシフトしようと求人サイトを眺めていると、大手レシピメディアのアルバイト募集が目に留まった。面接では広報やライターとしての経験を評価してもらい、記事制作チームのメンバーとして採用通知をもらった。
今は記事制作チームでコンテンツを作りながら、個人でもライティングのサービスを行っている。

諦めかけていたライターという夢が、気づいたら形になっていた。

私の夢は、一人一人の幸福度が高い世界を作ること。その人の想いやこだわり・価値観を、必要な人に届けるお手伝いをすること。
「いいな」と思ったものをより多くの人に、そしてそれを必要とするたった一人に届けるために、私は今日も書き続ける。


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