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カタオモイじゃいやだから。


この頃は、毎日の過ごし方において自ら命を削って何かをやっている、というよりも、外部のものに自分の命を削られているような感覚がある。

なんというか、out of controlというのか、追いかけられているというのか、
ランニングマシンに乗りながら、どんどん自分の意志は置き去りにスピードが上げられていくような。

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「いつか、数年のうちに、私は2拠点で生活がしたい。」

"2拠点"というのがぴったりの表現かどうかは分からない。けれど、生まれ育った関西と、一目惚れした宮崎と、そのどちらもが私にとっての"家"だと、そう言えるようになりたいのかもしれない。

"家(ホーム)"と書いておきながら、そのことばの意味を、しっくりくる説明で表現することはまだできていない。

なんだろう、
自分と、自分の大切な人たちと、一緒に過ごす(同じ屋根の下、というのに限らず)ことができて、試行錯誤しながら、思い出や人間関係を深めていきながら、暮らしをつくっていく。気軽に挨拶ができて、普通にそこに居ていいんだ、一員なんだ、と思える状態。
そんな感じのことが言いたいんだろうか。

生まれ育ったこの関西の土地では、それはこの20数年間をかけて、ある意味流れのまま、乗せられたレールの上に築いてきた(築かせてもらってきた)もののように思う。
すごくありがたいことで、本当によかったなあと思う。

これから先、どのくらいの長さがあるのかも分からない人生。
これまで積み重ねてきたルーツはもちろん大切にしたい。それでもやっぱり、私は去年の9月から心に燻り続けているもう一つの道に、自らレールを延ばして、もうひとつ、自分のルーツを育んでみたいなと思う。

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「いつか宮崎に。」「…でも、いつなんでしょうね。」

そんなことばを、つい先日、インドカレーを頬張りながら先輩に話していた。

「"いつか"って、そのための行動をしないと、いつまでもそうはなれないよね。」

先輩はそう言った。

そのことばはあまりにも真実すぎて、そして、少し視線をそらしていた現実であって、その日の午後も、夜も、今も、ずっと頭でぐるぐると再生される。

「視線をそらしていた」というのは、一歩を踏み出さずにいる現状への肯定だなと思ったからで、「いつか」と言っていれば、それはポジティブな目標のようで、前に向かって進んでいく響きがあるような気がするから。

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もう一つの"ホーム"では、何をして生計を立てていくの?
本当に、仲間や一員になれるの?
ペーパードライバーだけどちゃんと運転できるようになる?
やりたいことに、近づける選択なの?
ありたい生き方に、リンクする道なの?

「いつか」に向き合おうとすると、いろいろな不安が浮かんでは、消えることなく、解が見つけられないまま。
そのモヤモヤを飼いならすことはまだできていないから、「いつか」がずっと先になるようで、ずっと近づけないようで、その怖さから、近づきたいはずの現実から少し目をそらしている。

そらせばそらすほど、不安と焦りが大きくなることは、知ってるのにね。

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だから今日、この平日の休日という、少しいつもとは違う心持ちの日に、こうやってノートとペンで自分と向き合う時間を持てていることは、ある意味、処方箋のようなものにはなっているんだと思う。

書き出しながら、改めて、こういう時間は数週間、身体が求めていた栄養素のようなものだったんだろうなあと思う。

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覚悟を持って進む人の姿は素敵だ。

「覚悟を決める」なんて、文字では簡単なくせに、その一歩を踏み出す力はなかなか発動しない。

起動の仕方は頭で考えて分かるようなものではない、とも思うから、今日のこの瞬間、ことばにならない不安と焦りと憧れと、まずはちゃんと向き合うことが、「いつか」への半歩になると信じたい。

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1114(イイイシ)の日のノートメモを、
読み返した1116(イイイロ)の日に。


2019.11.16

#mijinkochallenge  

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