生きると言うこと。
はじめまして。
生きていくと言うことは儚くも尊く、そして現実です。
今目の前で起こる事全てが、自分自身のドラマであり、経験値となっていきます。
私は幼少の頃から家庭環境に関しては恵まれませんでした。そんな体験記、そして、これから自分が何をどう発信し、自分のためになり得るのかを考えながら、投稿していこうと思います。
まさに現代の言葉で言い換えるなら、
「親ガチャ」には大いに失敗の人生です。
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少々長いですが、少しでも多くの人の目に留まって頂けますと幸いです。
何度かに区切って配信したいと思います。
幼少期の頃の話は当時関わって頂いた民生委員さんや社協の方、近所の方から聞いたお話を基に書き記しています。
私は、幼少期のころは施設で育ちました。田舎の港町で人口は4万人ほどの小さな町です。
0歳から乳児院で育ち、3歳の頃に父方の祖母(以後、祖母)に引き取られ6歳まで生活を共にしました。
なぜ、そうなったのか。母親は14歳で私を産み、父親は17歳で遊びたい盛り。生活の基盤もできず、父親は学校にも行かず遊びに明け暮れる毎日。
しびれを利かせた母親が、私を連れて家を飛び出そうとしたのです。
予約したタクシーに乗り込み、私と共に家を出る決意をした時に、タクシーの前で両手を広げて、タクシーを足止めしたのです。私だけ置いていけと。
まだ産まれて2ヶ月の私を置いていけと。
私と暮らす未来予想図が想像できたのか?そうではないはずです。
『母親から何か大切なものを奪ってやろう』
そんな気持ちでの行動だったのだと今になって思います。
そのまま、なくなく母親は私を残して出ていき、残されたのは仕事もしていない半ば子どもの17歳の父親と私。
そう時間も経たぬまま民生委員の勧めで、乳児院に入ることとなります。
そのまま月日は経過し、3歳になった頃に民生委員が祖母にその事実を打ち明けることになり、祖母が電車で1時間半かけて迎えに来たのです。
当時、年齢にして確か82歳前後だったと思います。
父親は、大阪に出稼ぎに行き不在、祖母と寝食を共にすることになりました。
年金生活の祖母と私だけの二人だけの生活。それは、貧困生活の始まりだったのです。
お菓子なんてものはありません。飲み物は水だけ。お米は夜だけ。月の半分も出てきませんでした。
おやつは近所の神社でなっている木の実や果物。
仏壇に供えてある、花の絵を描いたような砂糖菓子を祖母にバレずに少しだけちぎって食べるくらいです。
ジュースが飲みたくなったら、その砂糖菓子を水に溶かして飲むなんてこともしてましたね。
保育園がなんて居心地の良い場所なんだとその当時は思っていました。
お菓子も出るし、お昼ご飯だって食べられる、お肉や魚も食べられるんですからね。
幸いなことに自宅の隣に畑があり、多くの農作物を作れる環境にあったため、半自給自足生活。季節ごとに獲れる野菜、冬限定のみかん、猪は自給自足で獲れました。
家で入るお風呂は週に1回。薪を燃やしてお風呂に入るスタイルでとっても大変だったのです。
その当時、近くに銭湯に週に2回通ってました。確か60円くらいでしたね。お風呂だけは幼少期ながらに自慢できる広いお風呂に入ってるのは自分だけだと思ってました。実際に銭湯で子どもが入っているのは見たことなかったので。(笑)
お風呂に行くといつも牛乳かコーヒー牛乳を奢ってくれるおじいさんがいて、その当時はお風呂に行くのがすごく楽しみだったのが記憶として残っています。たまに飲ませてくれるポカリスエットはこの世で一番美味しい飲み物だと思っていました。
そんな毎日が過ぎていく中で父親が帰ってきたのです。
続きはまた書きます。