○はじめに○ 筆記試験すら通らない、ど・ポンコツな就活生時代文学部日文専攻(太宰治ゼミ)だったこともあり、書籍や文芸誌の編集者に憧れて出版業界を目指したのが最初だった。文章を書くことは一番好きだったけれど、「好きなことは趣味でも続けられるぞ」という気持ちもあり、けれどもせめて好きなものに関わる仕事がしたいと思っていた。本当はそれが一番大変で、精神的にも物理的にも難しいということを、当時の私はまるで想像がつかなかったのである。同時に雑誌の<ライター>と<編集>の業務の違いすら
36歳になる日まで【平日随筆】と題してせっせと随筆を更新していた私であるが、その最終回をアップするやいなや私は博多へと向かうべく飛行場にいた。 目的地はDRUM LOGOS。ライブハウスだ。 劇場には毎週行く私だけど、ライブハウスには人生で数えられるほどしか行ったことがない。ライブに行ったことのあるアーティストはそれよりさらに数えられる。だけど、私の人生には数え切れないほどライブに行ったアーティストが一人いる。 誕生日にライブという奇跡が重なれば、二日徹夜したって原稿を終わら
文筆業の妻、役者業の夫。子ども5歳と1歳の2人。私たちは東京在住の4人家族だ。何もなかったかのように、こうして並んで眠っているけれど、はじまりはとても歪だった。いや、今だってどこか歪だ。稽古期間だから今月夫の収入ないし、妻、心が弱ってお酒飲むと時々知らない人について行っちゃいたくなるし。ケンカするたび、子どもになだめられている。人間自体そもそもがこんな感じで未完成なのに、それが何人か集まるんだからまあまあ色んなことが起こる。 それなりにズレたり、ブレたり、余所見したり、肝心
書けない。今日は書けない、もう本当に書けない。というエッセイを今書いている。この手は、二度は使えない最終奥義だということもわかっている。 35歳の自分のために、36歳の誕生日まで平日に毎日エッセイをアップしますねー!と言って、どこに頼まれても誰に望まれてもいないのにそんなこと言い出して、Twitterでもインスタグラムでも毎日今日のこれですー!って騒いで、つい数日前にはなんとかやり切ります!とまで言ってしまって、ばか。バカ!馬鹿! しかも、この連載のタイトル、最初なんだったか
うさぎには色があって、私は白だった。自分で決めたわけではない。 店に面接に行った日に店長からそう言われたのだ。 店というのはガールズバーである。店長は強面だけど優しかったし、ルールを守らない客には厳しかった。港区にあったそのバニーガールズバーに私が辿り着いたのは、ファッション誌の編集部にライターアシスタントとして出入りし始めたばかりの、まだ駆け出しの頃だった。 その編集部ではライターアシスタントを“お手伝いさん”と呼んでおり、業務内容は主にストリートスナップでの声掛けや取材
中学の時ほど、世界との壁を感じて生きていた時期はない。 当時のわたしはなによりも自由であることに固執していた。 だから、それを阻むものや人をひどく嫌った。 生まれてはじめて抱いた、反骨精神というやつだったと思う。 よりによってわたしの中学は、スカートの長さや髪型はもちろん、髪に止めるピンの数、お昼に買うパンや飲み物の種類まで決まっているような学校だった。(惣菜パンはOK、菓子パンはNG、つまり焼きそばパンはよくてメロンパンはダメで、おかず系ならいいのかなと思いきやおにぎりは
2020年の冬だった。 5年ぶりに開催する詩の展示に向けて製作している本の入稿がそこまで迫ったある日、次に入っていた仕事までの間に少しの時間が空いて、そのタイミングでiphoneの充電が切れた。 近くの携帯ショップの充電サービスにiphoneを預けて、外に出る。 こんなにも心もとない気持ちになったのは、iphoneが手元にないということよりむしろ、いつもは持ち歩いている文庫本がないこととか、次に控える仕事のためにmacの充電を使うわけにはいかないとか、何より、東京での暮らしも
朝夕自転車で通り抜ける善福寺川緑地公園の中で私にそう言ったのは、後ろに乗った3歳の娘だった。空は確かに暗く、もういくつか星が出ていて、木々に茂る葉が風に踊るその音だけが18時半の景色を包んでいた。 “公園が夜になる”という言葉を選ぶこどもの伸びやかさと迷いのなさに心を打たれ、その気持ちをそのままペダルにぐっと込めて前進する。 川を渡り、この先の坂道を登れば、我が家はもう直ぐそこだ。 いつの間にか“公園”という場所が家へと続く帰路でありながら、家とはまた違う自分たちの居場所にな
15年前、私はコンビニ店員であり、駅員補佐だった。 バイトを掛け持ちしていた訳ではなく、コンビニで駅員補佐をしていたのだ。 駅直結ならぬホーム直結で、つまり店内に改札があった。大手4社には該当しない西日本にしかないローカルなコンビニ。24時間営業ではない。閉店時間は1:00。 そこで働く人はみんな、改札の詰まりを直すことができた。キセルを追い返すこともできたし、見逃すこともできた。深夜勤務の最後の仕事は、終電1つ前の上り電車の乗客たちがホームからいなくなったのを確認してから、
原稿を2本書いて、友部正人の「誰も僕の絵を描けないだろう」を小さくかけながら、壁に娘が描いた絵を貼った。 はじめてこの家の壁に絵を飾ったのは、まだ娘が赤ちゃんだった頃、同業の友人で敬愛するアーティストでもあるみほちゃんに描いてもらった私と娘の二人のクレヨンの肖像画だった。 絵の中の娘は当然赤ちゃんのままだけど、絵の外の娘はそれも当然子どもに、そして大人へと向かっている。 だからこそその横に、とたしかな心で娘が描いてくれた私の似顔絵を貼った日。 それはもう6年も前のことだ。
娘のことがだいすきだけど、その「だいすき」には、"我が子だから"じゃない何かも確かにまざっていて、私はそのことがうれしい。 それは例えば、旅することを世界にまだあまり許されていなかった頃、大切な用事があって、諦観ではなく達観の気持ちで仕事や学校を休んだとき。 二人きりで北へ北へと旅をした日、二人きりでも旅一座みたいな朝のとき。 いくつになっても心が小さく震えてしまう飛行場でお守りのようにふとその手を差し出してくれるとき。 ビジネスホテルのセミダブルベッドの上、落ちていく日
そろそろ私に銭湯にまつわる原稿執筆をください。と、今日ははっきりと言っておこうと思う。 とはいえ、さほど大々的に発信もしていないし、世は空前のサウナブームだ。汗も文字も"かく手"数多である故にそう依頼もこないだろう。 ちなみに私は他者からの印象はどうであれ、自分をサ活に勤しむサウナーだとは思ってはいない。整う、という言葉もぴたりと自分の体感を表すものではない。思い切って言うと、実はサウナー御用達の「サウナイキタイ」にも長らくノレなかった。(だって、サ活は記録できるけど、ユ活
私が初めて観た演劇は、公共ホールはあれどこれといった劇場は一つもない滋賀の実家、その食卓で姉の演出によって上演された野田秀樹の『パンドラの鐘』だった。俳優もまた姉であり、そして紙でもあった。 蛍光灯の電気スタンドと赤や青や黄のセロファンを駆使した照明、当時主流だったラジカセで間合いを見極めて手動でカセットテープを再生・停止する音響、シルバニアファミリーのファーニチュアのような繊細な小道具……幼少の私にとっては、そのどれもが本当の神業に思えた。 何より、表情の変化を施せない紙
父が苦手だった。 それは「嫌い」ということではなく、「話す話題に困る」とか「どう接したらいいか迷う」といった「分からなさ」故の苦手さだった。 さらには、四姉妹のうち私だけが父に似ているところがまるでなく、「もはや父の子ですらないのでは」という不安を人知れず抱いたほどである。顔や体型、瞳の色や髪質、爪の形、黒子のある場所。「どこかに少しくらいは」と、幼かった私はほとんど祈るような気持ちで似ているところを探したけれど、探せば探すほど似てないところが目立つ一方だった。そんな幼き私の
この家には夫の家からやってきたバスタオルと私の家からやってきたバスタオルがある。さらにいうと、その内にはそれぞれの実家からやってきたものもある。 もう10年近く同じ家に住んでいてどれを使っていいはずなのに、私たちはたいていそれぞれの実家産のものをすすんで使う。同居を機に新調したものはあるのだけど、子どもが使うことはあっても私たち大人が体を拭くにあたってはなぜかそれらの出番は少ない。そういう時にふと、人がものに慣れるのにも親しむのにも、そして、人が慣れ親しんでいるものを手放すの
会うたび「きれいな名前ね」と言ってくれた人の話をしようと思う。 私の本名は、「美粋」と書いて「みいき」と読む。前置きしておくと、両親がつけてくれたこの名前はとても気に入っている。ただ、珍しいこともあって、初対面で名前をスムーズに読んでもらえることはほとんどない。 「みいきです」 「みゆきさん?」もしくは「みきさん?」 「あ、いえ、み・い・きです」 「どう書くんですか?」 ここからが問題である。 「美しいに純粋の粋と書きます」といえば一番スムーズなのだけど、なんだか自分を「