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あなたのタオルは使わない

この家には夫の家からやってきたバスタオルと私の家からやってきたバスタオルがある。さらにいうと、その内にはそれぞれの実家からやってきたものもある。
もう10年近く同じ家に住んでいてどれを使っていいはずなのに、私たちはたいていそれぞれの実家産のものをすすんで使う。同居を機に新調したものはあるのだけど、子どもが使うことはあっても私たち大人が体を拭くにあたってはなぜかそれらの出番は少ない。そういう時にふと、人がものに慣れるのにも親しむのにも、そして、人が慣れ親しんでいるものを手放すのにも思った以上に時間がかかるものなのだと痛感する。
バスタオルが家族の、そして個人の歴史の一部だとしたら無理もない。向こうは30年で、こちとらたかが10年だ。生地は薄くなっているが、厚みがちがう。私たちは同じ家に住んでいるだけで、歴史がしっかり異なっていて、つくづく他人で個人なのだなと思う。かなしく、はない。うれしい、もちがう。それはもう、そういうものなんだな、という気持ち以外何者でもない。

私たちはつくづく他人で個人なんだな、と思う瞬間はほかにもある。
それは例えば、鍋いっぱいの肉じゃがを作ろうと買ってきた野菜やら肉やらの材料が忽ち消えて、代わりにじゃがいもが多めの鍋いーっぱいのカレーが爆誕していたときとか。これもかなしく、はない。どちらかというと、うれしい。純粋に面白いなと、他者と暮らすってこういうことだよなと思う。他のことも、他の違いもこのくらいあたたかく、おおらかに受け止められたらいいのにな。でもそうは全然いかなくて、私たちは衝突する。なんでわからないの。なんでわかってくれないの。わかりたい気持ちよりもわかってほしい気持ちの配分が多くなってしまったときにそれは起こるし、その時もまた、他者と暮らすってこういうことだよなと思う。

私たちはつくづく他人で個人なんだな、と思う瞬間は子どもに対してもある。
それは例えば、自分には縁もゆかりもない習い事を娘が習いたいと言い出したときや、さらに縁もゆかりもない戦隊ヒーローやむしろ私の苦手な昆虫の洋服やおもちゃが日に日に増えるとき。みんなが寝たあとに一人、バレエの衣装の手直しに苦戦するとき、ひっくり返った昆虫のおもちゃを恐る恐る片付けるときに「わからない」とか「いやだな」と思ってしまうときもそうだ。ふとリビングを見渡すと、この家はつくづく個人の集積なのだと実感する。そして、それがこの家の、世界の景色なのだと痛感する。

ある日思い立って夫の実家からやってきたバスタオルを使ってみた。
かなり年季が入っていて、痩せこけていて、がさがさだった。そんなはずはもうきっとないのに、知らないにおいがする気がして落ち着かなかった。だけど、私に続いて浴槽から出てきた子どもをそれで包んだとき、子どもが言ったのだった。「あー、うちのにおい!」と。そのときに、そうか、これは30年の顔だけじゃない、10年の顔もするバスタオルなんだと思った。当たり前のことしか書いていないけれど、不思議なものだと思った。

それ以降、なぜか私もそのバスタオルを抵抗なく使えるようになっていった、とはいかないから、私たちはやっぱりつくづく他人で個人なのだなと思う。
同じ家に住んでいるだけで、歴史はしっかり異なっていて、だけど時々、ほんの少しだけ奇跡みたいに通じ合う。材料はあるけど今日はご飯つくりたくないなあと思っていた日にカレーが出来上がっていたり、いつの間にかバレエの衣装のお直しに手間取らなくなったり、昆虫のおもちゃに触れるのに抵抗がなくなったり、突然思い立って夫のバスタオルを使ってみたりするくらいの、取るに足らない小さな奇跡だけど。

30年も10年も昨日銭湯で買った新品もごったに回した洗濯物をたたむ。
端と端がもうぴたりとは重ならないくたくたのバスタオルたちを、それでもなんとか重ねて積んでいく。重ねたり、重ならなかったりするのが私たちで、これはそんな私たちの歴史のサンドイッチだ。その上に最新の私がのしかかる。不思議と落ち着く。

愛着や安心の根底にあるのは、つまりは「歴史」なのだろうか。
心理学用語では、こういった人の特定のものへの愛着現象を“ライナスの毛布”とか“安心毛布”とか言うらしい。“ブランケットシンドローム”ともいう言葉もある。“症候群”なんて言われるとちょっと不安にはなるけれど、自分の身体そのものをはじめ、変わらないものよりも変わりゆくものに縁取られて生きていく私たちには、変わらずそこにある愛着とか安心がそれなりに必要なのだろうなとも思う。5歳の息子も赤子の時から使っている黄色い平べったい枕のようなものに異常な執着があり、「きいろ」と呼び、とりわけ眠る前や朝起きたときに近くにそれがないと「きいろはどこ?」と少し落ち着きをなくす。いつかは「きいろ」にハンカチを振って決別する日がくるのか、それとも手離せぬまま大人になって誰かと暮らす新しい家にもそれを持ち込むのか、私は半分不安で、もう半分は共感でその様子を見ている。

バスタオルの端と端を合わせるように体を重ねて、ある日子どもができた。
わかりたい心とわかってほしい心を重ねて、今、家族がある。
この家には夫の家からやってきたバスタオルと私の家からやってきたバスタオル、それから、それなりの歴史を今まさに刻んでいるバスタオルもある。


©︎『あなたのタオルは使わない』/丘田ミイ子

*+*+What is 【平日随筆】*+*+

本エッセイは 【平日随筆】という試みです。
「35歳までに自分の連載を持ち、書籍化する」私にはそんな夢がありました。
チャンスは何度かあったがどれも白紙、どころかチャンスがピンチになる経験等もし、来月6月に遂に36歳に。
だから今日から約1ヶ月、35歳の私の為の連載【平日随筆】始めます。
更新は週5。諦めの悪い自分が時々好き。よかったら読んでね。


*+*+Who is 丘田ミイ子*+*+

丘田ミイ子(おかだみいこ)
1987年生まれ、滋賀県出身。大学卒業後、フリーライターの道へ。祥伝社刊行『zipper』にてライターデビュー。
その後、出産をきっかけに2014年より同社『nina`s』で5年間活動。その傍ら、『リンネル』、『Lala begin』、『LEE』、『FINEBOYS』、『赤すぐ』、『Olive』などの雑誌や『She is』、『SPICE』、『ローチケ演劇宣言!』、『演劇最強論-ing』、『DRESS』、『CHANTO web』などのweb媒体、その他企業メディアや広告媒体などへ活動の場を広げる。
ライターとしての執筆ジャンルは演劇、映像作品に関するインタビューやレビューなどのカルチャーを中心に、ファッション、ライフスタイルなど。
近年は、小説やエッセイの寄稿も行う。直近の掲載作に、私小説『茶碗一杯の嘘』(『USO vol.2』収録)、エッセイ『母と雀』(文芸思潮81号 第16回エッセイ賞優秀賞受賞作として収録)などがある。
2015年より育児と仕事の合間を縫って書き始めた初の長編小説を2022年に脱稿。破綻した恋愛と東京の街、ある時は劇場、またある時は雑誌編集部で他者の才能に翻弄されながら”ある時”を迎える駆け出しの文筆家の3年間(2011-2014)を描いた、85%の本当と15%の祈りから成る私小説的物語。版元・刊行・発表形式は現状未定。職種問わず、読んで下さる方はいつでも探しています。

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