見出し画像

そのパンは生きているか


日本らしいものの代表、コンビニ。

「健康的な食生活を送っていそう」とよく言われるけれど、平成生まれの私はコンビニのパンにノスタルジーを感じることもあった。

例えば、いつか観たアニメや青春ドラマのワンシーンに、制服とコンビニのパンとパックのコーヒー牛乳とか、ありそうでしょ。

そういう「イメージ」みたいなものに、強く惹かれていたりした。
それは世代のせいか、海外生活で日本の「イメージ」を恋しく感じていたせいか、両方かもしれない。


私自身も、高校生の頃はコーンマヨネーズのパンがすごく好きでたまにお弁当を持たずにお昼に買うのが嬉しかったことや、社会に出て一人暮らしを始めてから最初に迎えた春に、コンビニのいちごサンドをお供に独り桜を眺めていたことが断片的に記憶に強く残っている。



もちろん、今ではコンビニ食品は身体に悪そうだしもうずっと買っていない。
ただ、コンビニには、断捨離のお供メルカリで売れたものを送る時や、飲み水を忘れて来た日なんかにたまに寄ることがある。

そんな風にして何かの用事でコンビニに立ち寄ったある日、ふと「ノスタルジックなワンシーン」を体験してみたい気持ちになった。
お腹も空いていたし、数年ぶりにコンビニのパンを食べちゃおうと手に取ってみた。


その途端、びっくりして、手に取ったパンを思わず棚に戻しちゃった。


だって、びっくりするほど、軽かった。

「生きてない。」

直感的に、そう感じた。


添加物云々を抜きにしても、食べ物としての生命力がまったく感じられなかった。
それはパンの形をした、スカスカのプラスチックのおもちゃのようだった。



コンビニのパンを食べている人を否定するつもりはないの。
時にコンビニ食品に助けられることだってあると思う。


でもね。
私はパンが好きだから、「生きてるパン」を食べたいなって思ったんだよね。


食べるって行為は、生命エネルギーを得ること。
生きるためのエネルギー、生きたもののエネルギー。

その食べ物が、穀物や野菜として生きていたことが想像できるか。
手を動かして作ってくれた人の温かさを背後に感じられるか。

もっと言えば、一緒に食べている人との間の愉しい感情のエネルギーや、食べながら見てしまった暗いニュースの重たいエネルギーまで、食べ物と一緒に身体に入れている。

ヨガの世界では「プラーナ」なんて呼ばれる数字では表されないエネルギーのおかげで、私たちの心と体は豊かになっていく。



プラーナは目に見えないけれど、物質の持つプラーナは手に取った時の重みからも伝わると、このときコンビニのパンを手にして感じた。


ちゃんと人の手で小麦とバターと水から作られたパンは、焼きたてでなくても生きている感じがする。


自分を元氣にする食べ物は、頭でっかちに考えなくても、もっと感覚に頼って選んだらいい。


そういえば、少し前にメルカリのハッシュタグキャンペーンで「#平成レトロ」というタグがあった。
レトロになった平成のイメージ。

イメージよりも、生き生きとしたエネルギーを。





たわいもない話だけど、コンビニのパンの軽さに本当にびっくりして書いちゃいました。笑
パン屋で買った写真のカンパーニュ、生きている味がしたよ。








いいなと思ったら応援しよう!