見出し画像

書くこと

誰かの心に届いた。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
けれどその喜びを、言葉や表情で伝えられるだけの器用さを、私はやはり持ち合わせてはいなかった。

幼い頃の私は、よく怒っていた。
自分の中には確かな感情や考えがあって、
それを相手に伝えたいのに、伝わらない。それで怒って、そして傷ついてもいた。

伝えられないことで、相手による解釈が生まれる。
その解釈が、まるで私自身になる。
私という人格が勝手に形成されていく悲しみに、ひっそりと傷ついていた。

今でもその頃を思い出すと、胸がギューッとなる。
周りの人が悪い訳じゃない。
そんなこと、分かっている。
でも分かっていることと、伝えることって
イコールにならない。
私の中身、全部読み取ってもらえたら楽なのに。

通っていた中学校には、文章を書く時間が沢山あった。
集会の感想文、日々の生活記録、読書の感想文、長期休暇にはテーマに沿った作文…。
最初は添削で真っ赤になった原稿用紙が返ってきた。
でも、嫌じゃない。
真っ赤になる前の原稿用紙には、構成はめちゃくちゃでも、私の想いが全て載っていた。
夢中になって書くことは、息をすることに似ている。
身体の中でただ巡っていたものが、自然と外に放出される。
書きたい、そう思った。

中学3年生。初めてクラス代表に選ばれて、作文を集会で発表した。
その後、普段はお喋りもしないクラスメイトがプレゼントをくれた。
「私、感動しちゃった。誰の感想文より一番良かった」
その子の笑顔、今でも覚えている。
誰かの心に届いた。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
けれどその喜びを、言葉や表情で伝えられるだけの器用さを、私はやはり持ち合わせてはいなかった。

それからは、一段と夢中で書いた。
でも「書くこと」も簡単じゃない。
学生の頃は続けていたけれど、社会人になって忙しさを理由に遠ざかった。
「書いてみよう」そう思ったこともあったけれど「書けない」。

学生の頃に書いた原稿用紙には、純粋な輝きを纏った言葉が並んでいた。
今、書き上げたものと比べる。
途端に息苦しくなる。
机の引き出しに、原稿用紙と沢山の気持ちをそっとしまった。

そして今、私は「書くこと」にまた恋をしている。
時間は川の流れの様だった。
流れが穏やかな箇所もあれば、あまりの激流に溺れそうになったこともある。
けれど、その中にあった出会いや別れが私を「今」に運んでくれた。
伝えたい、書きたい。
そんな気持ちが止めどなく溢れてくるのに、前よりずっと楽に息が吸える。
川の流れに身を任せながら浮かび、空を見上げて思う。
そうそう、呼吸の仕方ってこうだった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?