伊勢原市渋田川ハ晴天ナリ 父との思い出を辿って
今年のゴールデンウィークには必ず訪れたい場所があった。父との思い出の場所、神奈川県伊勢原市、渋田川の芝桜を見に。
わたしの父は10年前に肝臓癌で亡くなった。
今でも、悩み事がある時や疲れてしまった時は父に会いたくなって、墓参りに出掛けては墓前で話しかける。
不思議と曇った心が軽くなるのだ。
12年程前に、医師に余命を告げられた父は「最期にわたしとの思い出を作りたい」と言って、何かイベントがある度にわたしを誘った。
渋田川の芝桜も、そのうちのひとつだ。
父と母はわたしが5歳くらいの時に離婚をし、わたしは母に育てられた。
母から聞く父は最低な人だったけれど、わたしにとっては優しい人だった。
だからわたしは父を嫌いになったことは一度もない。
そんなことを言ったら母は気を悪くするかもしれない。
母は健在で、来月還暦を迎える。
お祝いに「ゴールデンウィークで旅行に行こう」と誘ってみたが、母の仕事が忙しく予定が合わなかった。
他に連休を一緒に過ごせる人がいない訳でもない。だけど今日は1人でいたい気分なのだ。
午前中は、家事を済ませた。
花粉や黄砂が気になる時期は、部屋の窓も思うように開けられなかった。
今日は窓を開放して風を通した。
揺れるカーテンに、差し込む日差し。
家が喜んだ。
夜には家でビールを楽しむのだ。
すぐに楽しめるように、つまみも作った。
ー簡単エビチリー
刻んだ玉ねぎとニンニクを胡麻油で炒め、香り立ったところで海老を投入。
ケチャップ、砂糖、麺つゆ、唐辛子で味付け。
ー中華冷奴ー
絹豆腐の上に、食べるきのこ辣油と干しエビを乗せる。
ーひじき煮ー
ひじきを油揚げ、しめじと一緒に炊いた。
リュックには、読みたい小説と、充電を満タンにした携帯電話にAirPods、冷凍したカルピスウォーターを詰めて。
今日は必要のないメイクポーチと名刺入れは、リュックの中から取り出して机の上に残した。
さぁ。
独りで平塚に住んでいた父を看病にいく時は、都内から電車を使うことが頻繁にあった。
伊勢原駅で降りて、父の家まではバスかタクシーで向かう。
伊勢原の病院に入院もしていたので、どちらかと言えば伊勢原へいく電車の中は気が重かった。伊勢原の総合病院は、現在建て替えられたようだが、当時は薄暗い古い病院だった。
父が亡くなってからは、伊勢原へ出掛けようと思ったことはない。
いつか振り返られる時が来たら、思い出探しの旅に出掛けようと思い、あれからもう10年が経った。
あの時の気持ちを回想しようと小田急線に乗ってみたけれど、たくさんの時間が過ぎたのだ。
そう簡単には蘇らなかった。
大好きだった亡き祖母は横浜に住んでいて、鶴川が最寄り駅だった。
小田急沿線には何かとご縁がある。
あの時は辛かったはずだけど、思い起こされたのは、父と祖母が大好きだということだけだ。
わたしの頭の中は、次の休みのことや、家族やパートナーのこと。会う約束をしている友達のこと。
昨日見た映画のことや、カルピスが飲みたいのに凍らせてしまったから溶けずに飲めないという困りごとに、今日は半袖を着てきて正解だったなとか、電車に乗っているみんなはどこにいくんだろうなとか。
多動気味な思考の原因は、期待半分と知らずとこの小旅行に浮き足たっていたのかもしれない。
自分がどんな気持ちになるのか。
やっと小説を読み始めたのは相模大野あたりから。可愛い犬が主人公の読み物。自分の居場所を探し、運命の飼い主の元へ辿り着く。
この本は仕事のクライエントがプレゼントしてくれたものだ。
思い出探しの旅に出たわたしには、ぴったりな本だったのかもしれない。
まだ読み始めたばかりだが、印象的な言葉があった。
犬の運命の飼い主となる少女が、犬に出逢う日の朝に言った言葉ー
「ママ、今日は何か大切な日だという気がしてならないの。どうしても今日はでかけなくちゃ。なぜだかわからないけど、そんな気がして仕方ないの。」
母はこう返す。
「ママもそんな日があったわ。パパと初めて会った日もそうだった。予感って大切。いいことがあるといいわね。」
この先の人生で、どれだけの直感が働くのだろう。
伊勢原駅に着くと、見覚えがあるような、あの時と変わっているような。
いつか父と行った大山のポスターが貼ってあった。
確かに、あの時にいた場所だ。
渋田川へは、平塚駅行きの3番乗り場のバスに乗り、大田小学校前で降りる。
そこから徒歩10分ほど。
父とは車で来たので、全く地理がわからない。携帯のナビを頼りにしたが田んぼ道で迷い、大通りに出ることにした。
「あぁカルピス飲みたい。今日は暑い。」
はぁ。カルピスはまだ凍っている。
凍らせるにはまだ時期が早かったみたいだ。
歩き続けると小川が見えてきて、うっすらピンクも見えてきた。
「綺麗な芝桜を見せたかったんだけど、もう時期が過ぎちゃったみたいだね。」
父は申し訳なさそうに言った。あの時見た芝桜と同じ様に、もうピンクが茶色に枯れてしまう途中の状態だった。
あの時といっしょだ。
満開ならどんなに綺麗だったかしら。
けれど、あの時と同じ方がよほど美しい。
「おとうさんと一緒にいられるんだから、そんなのどうでもいいよ。」
そう言ったら涙が溢れそうで言えなかった。
枯れた花の中に、奇跡的に真っピンクな区画があった。
区画毎でお世話している団体が違うようだ。
沢山のピンクをカメラに収めていたら、牛の匂いがしてきた。
匂いを辿り、歩き進めると石田牧場があった。
牛小屋を覗くと、牛のお尻が何体も並んでいた。牛って意外と大きいんだ。
小屋のそばにはジェラート屋さんがあり、そこで休憩をすることにした。
でもわたしはジェラートは絶対に買わないんだ。だって、凍ったカルピスを持っているんだもの。ホントはジェラートが食べたかったけれど、わたしは頑固者なのだ。
ミルクアイスが食べたいと0.1しか大差ないくらいでホットコーヒーが飲みたい気もしている。
看板をよく見れば、牧場のミルクコーヒーというのだから、そっちの方が良くなってきた。
「ホットミルクコーヒーをお願いします。」
またピンクの場所に戻って写真を撮った。
「芝桜で写真を撮りたかったんだけど、もう枯れてきているから、ツツジの所で写真を撮ってくれないか?」
父はわたしにそう言った。
「うん、いいよ!ここが良いね!」
父はカメラのレンズ越で、わたしに微笑んだ。
「これは、俺が居なくなったら遺影に使ってほしいんだ。」
「そんなこと言わないでよ。」
そう言ったら涙が溢れそうだったから、聞こえないふりをした。
今でも父はリビングで、つつじと一緒に写真の中から笑っている。
渋田川の側に、いつか一緒に見た田んぼ道に似た景色があり、見たら少し寂しくなった。
さぁ帰ろう。
拝啓 お父さん
お元気ですか?
そちらの世界でも、競馬をしてお酒を飲んで楽しんでいますか?
わたしは元気です。
色んなことはあるけども、お父さんが見守ってくれていると思うので頑張れます。
来年は、いま側にいる大切な人と満開の芝桜を見にこようと思うよ。
カルピスは凍らせてはダメだね。来年はアイスを食べるから。
それじゃあ、またね!
元気でいてね。
頑張るよ。
ーゴールデンウィークはまだ始まったばかりだ。