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計算では人生のステージを上げることはできない

人がステージを上がるときって、境地が変わる時なんじゃないかなと思います。

境地を辞書で調べるといくつかある意味の中に、ある段階に達した心の状態、とあります。ある段階に達したから今までとは違う段階に入ったと言えます。

これってなろうとしてなるものではなく、人生を生きながら人間性が磨かれた末に起こることなんじゃないかと思うのです。

たとえば私のことで言えば、「ありがとう」という境地をずいぶん大人になってやっと知りました。

この境地を知るまで、ありがとうが感情だと知りませんでした。ありがとう、感謝というのは持たないといけないものだと思っていたのです。子どもの頃から「あなたのために○○なんだから感謝しなさい」とか、「早くお礼を言いなさい」と言われ、自分はちっとも望んでいないことをしてもらったときや、自分のタイミングや言葉でお礼を伝えたいのに一刻も早く言え、などと決められて、お礼を言わされている、感謝すべきことをされるのは面倒くさい、と思って感謝という言葉が大嫌いになっていたのです。

今になって思えば、自分の心は何に感謝しなくてはいけないかわからないのに、感謝を強要され、心とずいぶん乖離した行動を無理にさせられていたため、感謝が嫌いになったのだとわかります。

人が一方的になにかしてくれると、「またお礼をしなくてはいけない」「また嬉しいふりをしなくてはいけない」という気持ちが起こりとても負担に感じていました。

実家を出てとてもほっとしたことのひとつに、この感謝の強要から自由になったというのは大きいものの一つでした。

その後50も過ぎて、私は勝手に感謝が沸き起こる経験をします。それには、自分と向き合い、自分の感情を感じることを許し、人との関係がそれまでとまったく違うものとなり、自分が人間関係で自分のままでいられるようになっていって、初めて誰かが自分のために心を配ってくれたこと、それにとても感動するようになったのです。

感謝はしなくてはいけないもの、と思っていたから、感謝されるような行動もしなくてはいけないものだと思っていたのです。

でもそうではなかった。誰かがただやりたくてしてくれることがあると知ると同時に、自分もただやりたくてしてもいいと知り、そしてだからこそ、しなくてはいけないことではなく、したいと思ってくれたことに感動し、心にその想いやりが染み入っていくのを感じました。

ありがたい、って喜びだったんだ。幸せだったんだ。私は感謝を味わい喜ぶ境地に至りました。

境地というのは、損得では到達できません。

感謝しなくては、と思っているかぎり本当の感謝の境地にいたれないように。

見返りを計算して人に親切しても愛の境地にはいけません。何かを手放すということも、手放したらかわりに入ってくるものに期待していては手放した境地にはなれません。だって、かわりに入ってくるものをすでに握りしめているから。

人生というのは、いたりたい境地を途中の小さなゴールに設定し、そこに至るまで魂を磨きながら生きる時間なのではないかと思うのです。

境地は計算した方法では手に入りません。今できることを今目の前にあることに対して無心で取り組む。するとふっと見える景色がかわって心がふわっと軽くなり、自分が今までと別の境地にあることに気づく。

どんどんと境地を塗り替えるたびに、私たちは自分を知り、本来の自分が掘り出されていくのだと思います。


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