生きているのはなぜだろう。
「生きているのはなぜだろう。」 読む。
ほぼ日の「TOBICHI」へ行ったらちょうど展示されていて、めくってみたら、絵本だけれど子どもが読むには難しそうだったので、自分が読むために購入。
子どもが寝てからゆっくり読もうと思い、絵本の棚にぽんと置いておく。
そして、子どもを寝かしつける時間。
「はい、絵本選んでー」と声をかけたら、子どもたちが「生きているのはなぜだろう。」を引っ張り出してきた。
新しい絵本だもんね。でも難しいかもよ。と言いつつ読み始めたら、意外にも集中して真剣に聞いている子どもたち(7歳と3歳)。
「“ちつじょ”ってなに?」(3歳)
「“渦”だってよ! 俺知ってる!」(7歳)
どうだった?と聞いてみたら、
「おもしろかった!」(7歳)
「でも、ちょっとこわかった」(3歳)
たしかに、おチビには、吸い込まれるような絵が、少しこわく感じるかもしれない。
♪
小さい子でも、言葉の意味が全部は分からなくても、良い絵本は最後まで集中して聞けるのだなあ、と感心していた翌日。
「おかあさん、絵本読んで」と子どもたちが持ってきたのはまた、「生きているのはなぜだろう。」だった。
どうやら本当に気に入ったらしい。
そしてその翌日も。
「おかあさんちょっとお仕事があるから待ってね」と言ったら、とうとう兄が弟に読み聞かせていた。
♪
なぜ、自分がここにいるのか。
という疑問は、たとえ明文化できなくても、老若男女すべての人が等しく抱いている宿題みたいなものなのかもしれない。
本能のまま自由に生きているように見える子どもたちだって、この世に生まれ落ちた瞬間から、否応なく終焉へ向かう宇宙の秩序に組み込まれているわけで、もしかすると小さい人たちにこそ、今を生きるための哲学が必要なのかもしれない。
枕もとに落ちている絵本を拾い上げ、夢の世界に里帰りしている子どもたちの寝顔を見ながら、そんなことを思ったのだった。