自分らしさ発見の0→1は「哲学×アート」だった-『ハウ・トゥ アート・シンキング』の考察
自分らしさとは、何か。
好きなことで生きていく理想像は、なぜ非現実的に感じるのか。
このような疑問を持つ中で、僕は自分らしさを見つけ始めている。
そのきっかけになった『ハウ・トゥ アートシンキング』の批評を兼ねて、「哲学×アート」という側面で考察する。
自分らしい(=自分が「愛」を感じる)ことを発見するお手伝いが出来たら嬉しい限りだ。
1. アートシンキングとは、0→1を見つける思考法
最近、自分のnoteの方向性が、自分では納得しつつ、「なぜこのテーマと結論なのか」を言えない日々が続いている。
noteに関わらず、仕事や働き方について、何か筋が通っていながら、言語化できていない。
そこで、自分らしさを見つけるために『ハウ・トゥ アートシンキング』を勧められて読んだという訳だ。
アートシンキングとは、表題通りだが、
自分以外(「他分」)を排除し、ありのままの自分を見つけ、それをアウトプットするための考え方を提示している。
無意識に自分と思い込んでいることを見つめ直し、自分が興味を持った事と本の内容を組み合わせることで見えてきた事をここに残したい。
2. 哲学とアートについて
■哲学について
先日、さく兵衛さんの哲学についてのツイートがバズっていた。
さく兵衛さんは、「努力すべき、という概念」を授業で哲学する中で、哲学とは何か、を見つけ出されていた。
4枚目に、哲学について次のように仰っている。
哲学とは「定義の曖昧な部分を見つけ、分解し、自分なりに再構築する」学問だと思っている。
哲学は色々なテーマで(対話をしながら)前述のプロセスを行う学問だ。
前提や常識として仕組み化したものを壊すのはとても難しく、大変だ。
一方で、気づくと新しい解決策や考え方が拡がる。
当たり前のことに対して「なぜ」に気づこう、と述べた三浦梅園の言葉にも繋がる。
■マンガ・アニメ「鋼の錬金術師」について
このツイートを読み終えた瞬間、哲学のプロセスは鋼の錬金術師とそっくりではないか、と思った。
突拍子もないけれど、ここでストーリーを振り返る(懐かしい作品なので)。
【ハガレンのあらすじ】
主人公のエルリック兄弟が、大好きだったお母さんを復活させようと錬金術を使う。
ただ、「人間を構築する炭素などの成分だけでは真理が不足している」と言われて合成が出来ず、代償として身体を失う。
身体を取り戻そうと足掻くと国家の陰謀に巻き込まれ、それを解決する...。
そんなストーリーの中で、錬金術の方法をこのように説明している。
錬金術は、物質を理解・分解・再構築する科学なり。
物質を①理解→②分解→③再構築する。これは哲学と非常に似ていないだろうか。
唯一異なる①部分も、話のストーリーを読むと同じことがわかってくる。
哲学→「定義の曖昧な部分を見つけ」
ハガレン→「理解」
【ストーリー】
エルリック兄弟は、身体を構成する物質で足りないものを、困難を乗り越える中で見つけた。人間の定義の曖昧な部分を見つけ、それを扱う神のような存在に対してアウトプットする(再定義)ことで、物語があの終わりとなる。
哲学のプロセスを鋼の錬金術師というアート作品でアウトプットされている、と思う。いかがだろうか。
3. アート・・・再構築の独自の手段
■僕のアート
さて今、哲学の構造を分解し、「鋼の錬金術師みたい」と述べてみた。
「鋼の錬金術師」については「なぜかすごく面白い」くらいの幼稚な感想しか抱けていなかった自分。
異質の2つの捉えられていない特徴を見つけ、分解し、自分なりに哲学の構造を再定義してみた。
僕にとっては「哲学とハガレンの構造は同じ」という考えを、僕なりの小さな「アート」として、このnoteの文章と言う形でアウトプットしている。
もはやアートと言えるレベルではない言葉だけのものだけれど、その概念らしさをアウトプットする時、素材・規模・方法を変えていくとより秀逸に出来上がるだろう。
■哲学とアートの関係性
さて、哲学とアート作品は全く同じなのか。
この2つには、プロセスは同じながらフォーカスするポイントと表現方法の幅広さの差がある。
共通事項「定義の曖昧な部分を見つけ、分解し、自分なりに再構築する」
哲学→定義の曖昧な部分を見つけ、分解することに重きがあり、言葉で表現
アート→(日常などの気づいた要素を自分なりに分解した上で)再構築する方法に重きが置かれ、独自の素材と使い方で表現
この表現方法が、言葉、アート作品、漫画、文学、本、会社、事業...と人それぞれの自分らしさに紐づいて、アート的に表現されるのである。
4. 「ハウ・トゥ アート・シンキング」と自分らしさ
ここで自分らしさとこの話がどう関係するのか、という本題に立ち返る。
あなたの「自分らしさ」の定義は曖昧なものではないだろうか。
少なくとも僕は曖昧で、この本を読み始めた。その中で自分らしさについて次のように語られている。
個人や組織の「自分」探しのワークショップで難しいのは「他分」を捨てることです。(自分の)特徴を挙げたら、その中から本当の「自分」以外のものはどんどん捨てていきます。
ポイントは、どちらも「自分」と言いたくなることをあえて二者択一することです。どちらかを必ず捨てる、と言う作業を通して「自分」が研ぎ澄まされていくのです。
(文章一部中略、『ハウ・トゥ アート・シンキング』より)
この作業をしながら、僕は詰まってしまった。
・・・僕、人のために何かすることが好きなんですけど。完全に「他分」じゃないか...。
そこで別ページに解決の糸口があった。
「ムダな行為のはずなのにやってしまうこと」に価値がある
(要約、同著より)
ムダな事・・・例えば本来、やらなくても良いnoteのアウトプットを僕はなぜするのか。
僕に取っての自分らしさは「特定のものや異質な物の共通項を見つけ、問題を解決することが好き」なことだった。
この行為は依頼がなかろうと行い、僕なりに好きでやってしまう。
考えるのが面白くて仕方ない。よく混乱し、挫折するけれど、考えることは好き。
「哲学とハガレンは同じ」とか、「コスメの共通項はどうだ」とか。
僕らしさであり、noteは僕のアート作品だった。
■黒歴史からは「発見」より「確かめ算」
本では黒歴史からのアプローチについても書かれている。
僕は黒歴史からやってみたらうまく行かなかったが、
「確かめ算」としての効果があったことをお伝えしたい。
(恥ずかしながら、黒歴史を並べたら、あまりの自分の無能さに涙が止まらず書けなくなった)
黒歴史については、多数あるので1つだけ。
15,000円ほどあれば1ヶ月でできることを、1年の歳月と40万近くつぎ込んで乗り越えたこちらについて。
経緯は省くが、ラテアートの練習を動画や本物を見ながら、独学で改善を続けた。(写真は一番良く出来たもの)
それの何が自分らしさなのか、ただの馬鹿じゃないか、と思ったが、
「特定のものや異質な物の共通項を見つけ、問題を解決することが好き」と言う観点では、確かに、自分と動画の差を理解→違うポイントを分解→自分なりのアウトプットをしている。
これが好きじゃなければ、僕は続けていなかったはずだ。
さらにここに、自分が興味を持つ範囲やきっかけ、が絡んでいそうだけれど、それは別の機会で。
5. まとめ
哲学とアートの本質は同じで「定義の曖昧な部分を見つけ、分解し、自分なりに再構築する」こと、重きを置く場所と表現方法が違う。
定義の曖昧なものである「自分らしさ」は
「他人のためではなく、一見無駄だけど好きでやってしまうこと」から見つけ、黒歴史の乗り越え方で確かめてみよう。
僕はこのような形で、自分らしさのを少し発見した。
他分ではないところ、他の人のためではなく、自分が愛を持っていること。
自分らしさのアウトプット方法(つまりアートの要素)は、デザインシンキングとアートシンキングを繰り返して、さらに掘り下げていきたい。
(終わりに)
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こちらの書籍はぜひ、自分探しの参考にお役立てください。もっと詳しいことが書いてあります。