見出し画像

「子ども主体」のためには 結果がすぐにでなくても辛抱できる忍耐力が必要だね

その年の年中クラスは、毎日毎日、何かしら「楽しいこと」がありました。担任の保育士さんは、熱意があって、多趣味な人でもありました。絵や制作も上手だし、手芸も上手だし、絵本にも詳しかった。自分のできることを生かして、子どもたちが日々色々な経験ができるようにと、工夫をこらした保育を実践していました。

お誕生日の子がいれば、その子の好きな遊びをみんなで取り組む日を作り、遊びの様子を写真入りで掲示していました。公園でのおにごっこが特に人気でしたが、いつもの公園遊びとは違う特別感があるってことが写真からも伝わってきました。園の行事の時には、絵本の登場人物からお手紙が届き活動を盛り上げていました。子どもたけでは実現できないような制作にもチャレンジしました。細かいビーズを使ったブレスレットを作ったり、石鹸を作ったり、針と糸を使った手芸作品を作ったり。

そんな風に、本当に楽しいことが一杯の1年間を過ごし、同じ保育士さんが年長クラスも担任することになりました。
その人は、きっと、年長になったら保育士があれこれ準備するのではなく、子どもたちが「やりたい」と思うことを大事にしよう、と考えたのだと思います。直接話を聴いた訳ではないですが、子どもたちとの関わり方が少し変わりました。保育士さん自身が、毎日新しい遊びを提案するのではなく、意識して子どもたちに委ねているように見えたのです。

年中の時の華やかな毎日に比べれば、年長の活動の方が単調にも感じられました。近くに色々な公園があるのに同じ公園にばかり行き続けていた時期もあるし、みんなで作ろう、って言って始めた大きな作品が、完成しないうちに忘れられて、フェードアウトしてしまったこともありました。

傍から見ていた私は、あぁ子ども主体の活動、って、言葉で言うほど簡単じゃないな、って思ったんです。
年中の時に、色々な「楽しいこと」を経験した子どもたちには、「楽しいこと」の引き出しは充分にあったと思うんです。
実際、年中の頃の子どもたちには、やらされている感じはなく、どれも、前のめりに楽しんでいました。「あんな風にやってみたいな」「年中の時のあれが楽しかったから今度は自分たちでやろう」って考えても良さそうなものなのに。

でも、「提供された活動を楽しむこと」と「コレがやりたい、を自分で考えること」の間には、きっと大きな隔たりがあったんだと思うんです。

(少し話がそれますが、「やりたいこと」が毎日泉のように溢れてくるタイプの人もいます。個人的にはすてきだなぁ、羨ましいなぁ、と思っています。こういう人は、何かしらの例を示さなくても、やりたいことが自分の中から溢れてくるし、何ならそれを自分で完結させることもできるんですよね。そういう人たちの魅力は、また別のところでお話したいと思います。)

年長の1年間を振り返ってみれば、子どもたち自身が思いついて、最後まで形にできた活動もいくつかありました。あとになってみれば、「途中でフェードアウトした活動」も、子どもたちにとっては主体的な活動の1つの形だったし、大事な経験だった。最後まで形にできることが、全ての活動の目的ではなく、その過程も含めて、年長の1年間の経験だったんですよね。

とはいえ、保育に詳しくない人の目には「年中の時は、あんなに色々な経験をしたのに、年長では大したことなかったね」という風にも見えたかもしれません。

子ども主体の活動を実践しようとする時、大人は、もちろん、ただ何もしないで見ているだけではなく、前に進められるよう、さりげなく声をかけたり、サポートしたりします。それでも、「やっぱり、もうやーめた」と子どもが決めれば、それを無理強いすることはしないし、「これでもう充分!」って子どもが思えばそこで完結します。

大人の視点で、「こうやったらうまくやるのに」と思ったとしても、子どもたちにとっては、「うまくやること」は重要じゃないかもしれない。子どもの育ちにとって、きっと良い効果があると思うけれど、それがはっきり感じられるまでには少し時間がかかります。
でも、子どもたちが伸びようとするチカラを信じて、彼らの本意でないことを無理強いしないで関わる忍耐力が求められるんじゃないかなぁと思うんです。

子ども主体って、華やかな成果や結果が出るとは限らない。大人に分かりやすい成果が出なくても、彼らの関わる過程や成長を丁寧に見守る観察力と忍耐力が必要ですね。

いいなと思ったら応援しよう!