アート、というよく分からないものを子どもたちに提供する
2つの保育園で、「アートクラス」の講師をしています。
子どもたちにとっては、「時々来る先生」または「時々来るヘンな人」という存在です。外部講師と言えば良いのでしょうか。
1つの園では、もう何年もアートの時間を担当しています。子どもたちも、私の姿を見ると「あっ!きょう、アートの日だ!」と声をかけてくれます。そして、私との活動の時は、ちょっとハメをはずしてもいいと思っている節があるんですよね。
絵の具遊びをすれば自分の筆で自分の手足に色を塗り始め、小麦粉粘土を作れば小麦粉の粉の中で泳ぎ、バケツにあふれるほどの水を汲んで色水を作ります。
まぁ、いいんですよ。いつもはいない大人が1人いることで、「ちょっといつもとは違う遊び方もやっちゃえ!」と弾みがつくのなら、それはそれで意味がある。
もう1園は、今年度から始まりました。子どもの人数の多い園です。クラスごとに分かれて活動を行うため、準備した同じ活動を、私は、何度も行います。(もちろん子どもは1回ずつです。)
用意した活動も、道具も、私の導入も、だいたい同じなのに、クラスごとに、びっくりするほど遊び方が違います。面白い。
今月は、「紙」で遊びました。大きな薄葉紙を見せながら、カサカサと音を立てます。あれ何かな?と子どもたちが興味をもったところで、1人1枚ずつ渡します。そこからです。お布団にしたり、マントにしたり、そのまま投げ上げて飛ばしてみたり、ちぎったり、まるめておにぎり作ったり。どんどん小さくちぎって、花吹雪のように降らせて遊んでもいいし、カラフルなお団子を何個も何個もつくってもいい。1人1人、自分の遊びたいように遊べばいいのです。全部のクラスで遊び方が違ったのは、それだけ用意した遊びの自由度が高かったからだな、と自負しています。
さて「アート」って何でしょうか。
私は「アート」のプロでも何でもありません。おもちゃの企画書の絵が描けず、保育士試験の実技でも迷わず「絵以外の2つ」を選んだ私が、アートを教えたり語ったりできるものでしょうか。
正直言えば、「アート」の持つ意味は分かりません。「アート」とは何か、学んだわけでもない。
ただ「アートクラスをお願いします」と言われて、考えていることは「創る遊びの楽しさに出会う」ことです。仕上がりの良し悪しは、その後から付随するものだと考えています。
何かを創る遊びは、何をつくろうか考えている時もわくわくするし、つくる途中で目の前のものがどんどん形を変えるところも楽しいし、できたものをどんな風に使おうか、と考えるところも楽しい。
どこを楽しいって思うかは1人1人違う。だから、自分が遊びたい遊び方も違う。そういう、「自分で決めていい」「どんな風に使ってもいい」という想いって、とてもアートなんじゃないかなぁ、という気がするのです。
その上で、子どもたちの様子を見ながら「素材をじっくり扱う」「新しい表現方法を面白がる」「美しさ(←これもまた定義が広い!)を味わう」というような、こちらの立ち位置は意識しています。でも、意識したものと違うところで、子どもたちがどんどん活動を発展させることもある。それがいいんですよね。(もう一言付け加えるならば、こちらが立ち位置を意識するからこそ、子どもたちが私の想定を容易く超えていくことに気づき、驚けるんだと思っています。何も考えずに、「まぁ自由にやってくれればいいよね」だけでは、そこに気づく眼は持てない。)
そんな訳で、何がアートなのかはよく分からないけれど、アートな心を持って、今年度も子どもたちと楽しい時間をおくっていきます。