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いまを生きる

「DEAD POETS SOCIETY」という映画をご存じだろうか。
邦題は「いまを生きる」。
厳格な寄宿学校を舞台にした、少年と青年の間くらいの歳の生徒たちの物語。

映画のストーリーについては、詳細は、もう説明できないくらいに忘れていて、覚えているのは、ロビン・ウィリアムス演じる先生の「Seize… the… day」という低い声(いや、ここは、カルペディエムだったかも)と、生徒たちが無言で自分たちの意思を表明する、最後の場面くらい。それなのに、その最後の場面を思い出すと、それだけで胸にこみあげてくるものがある。

最後の場面に至るまでのストーリーは、当時の私にとってはそんなに重要ではなくて、おそらく、そこに漂う空気感に共感し、自分を重ねて、そして最後の場面は自分の物語として受け取っていたんだと思う。

その空気感とは、〈自分であること〉と、〈期待される大人像に近づかなくてはいけないこと〉との間で揺れる、思春期らしい閉塞感とでも言ったらいいだろうか。

私の在籍していた高校は、自由を標榜していて、実際、私も同級生たちも、直接的な大人からの抑圧を感じることなく、学校生活を過ごしていたけれど、それでも、大人になることに対する窮屈さみたいなものは感じていた。

社会に出ていくことが実感を持ってイメージできない中で、社会で生きていくための何かに、自分を当てはめなくちゃいけないと、思い込んでいたような気がする。

今になってみれば、なぁに、大人なんて、そんなムズカシイもんじゃないし、自分のまま大人になる方法もいくらでもあるよ、って笑い飛ばせる。でも思い返してみれば、自分は自分だよね、って最初から言えた訳じゃない。

自分のまま大人になる、という遠くに答えのある問の入り口に立ったような、そんな時期だったからこそ、この映画が、そして、「自分は自分だ!」と高らかに宣言するような最後の場面が、心にぐっと刺さったのだと思う。

現代の「DEAD POETS SOCIETY」を訳した「死せる詩人たちの会」という詩的な言葉選びも好きだけれど、映画のタイトルとして「いまを生きる」という言葉を選んだのは、本当にすてきだと思う。「Seize the day」今日をつかむ、という英語の翻訳としての、「いまを生きる」。

大人になった時や、社会に出た時、未来のどこかの自分のために生きるのではない。今日の、たった今の、自分のために、今をつかみ、今を生きる。

大人になった私たちだって、いつでも、机の上に立つことができるよね。

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