映画「きみの色」に感じる 自分をちっぽけな存在だと思っていたあの頃
言葉にならない心の動きが詰まった映画だった。
言葉にならないものの感想を、言葉で表現するのは野暮な気もするけれど、でも、音や、空気の色や、心の中のぐるぐるは、言葉に翻訳しておかないと、すぐに形を変えて、もう取り戻せなくなってしまうから、伝えきれないとしても、言葉の形で残しておきたい。
映画『きみの色』。
私の出身校が、劇中の学校のモデルになったと知り、見たくてたまらなくなった。長崎でロケをしたことを大々的に宣伝していて、街の景色や、都電や、急な坂道には、実在の景色がそのまま反映されているらしい。その、長崎の街のはずれに、見覚えのある建物と中庭が広がっている。
出身校に対しては、愛校心は感じていないのに誇りは感じている、という屈折した感情を抱いている。校風にも、歴史にも、建物にも。だから、画面に懐かしい建物が映るたびに、嬉しく、誇らしく、そして、いつしか、あそこにいる女の子たちの中に、高校生の自分を探すような気持ちになっていた。
総じて、大人になってから高校時代を思い出すような映像だったなぁ、と感じる。淡い色調。急な場面転換。心が動いたところの場面だけが切り取られ、その先のことは描かれない。そして、外の社会との繋がりもあまり描かれない。覚えている情景だけが切り取られたファンタジーのよう。
ティーンの頃の、冷静に説明すれば大したことじゃないんだけれど、本人にとっては、ものすごく大きな悩みで、自分の周りが厚いカーテンに覆われているような感じを思い出す。カーテンの外側の明るい世界は、自分とは無縁のもののように思えて、内側で膝を抱えて座っているような想い。
劇中でも、3人の高校生の重い気持ちは、さらりとしか語られていない。大人の感覚では「その程度のこと?」と言ってしまうようなこと。でも、そうだったよね。何を悩んでいるのか、という中身は、そんなに重要ではないんだと思う。子どもから大人になろうという変化の時期は、ほんの些細なことにも心動かされ、自分に自信がなくなったり、自分の存在なんてちっぽけでどうでもいいものだと思ったりしてしまうことって、しばしば起こるんじゃないかな。
小さなことにつまずくのも自分だけれど、それを解決するのも自分しかいない。自信は自分で取り戻すしかない。何かに夢中になって取り組むうちに、世界の中では自分の存在はちっぽけだとしても、自分自身にとっては充分に大きいのだから、それで構わない、という気持ちになるんだと思う。自分の取り組みたいことに夢中になっている「自分」がいるから、それでいい。
誰でもちっぽけで。それでいい。そのままでいい。
そう言えば、物語はニーバーの祈りから始まった。
私が大事にしている言葉が映画に登場したことに、驚きはなかった。私がこの言葉に出会って、感銘したのも、やっぱり高校生の頃だったから。ナニモノかになりたいと願う「私」と、自分は自分のままでいいと思う「私」。どちらも紛れもなく私だからこそ、その間で揺れる。ニーバーの祈りは、その思春期らしい気持ちの揺れに寄り添ってくれる言葉だったから。
修学旅行期間に、こっそり寮でパーティーをする描写に、ぐっときた。一緒に過ごせるたっぷりの時間。2人はバンドのために曲を作ったり、歌詞を書いたりしない。おやつを食べ、マンガを読み、「普通の女子高校生」みたいなことをする。彼女たちは、特別な女の子じゃない。音楽を極めようとしているわけでもない。(たぶん音楽は自分を解き放つための1つのツール。)普通の女子高校生としての楽しみがあって、何だかとても安心した。
この映画では、「映画的」な大事件は起こらない。でも、同級生を探すために毎日街を歩き回ること、バンドを結成すること、練習のために船で島に行くこと、そこで一晩泊まること、文化祭のステージで発表すること・・・それは、どれもどれも、実際に体験したら、間違いなく「大事件」!そういう意味では、映画の描き方はファンタジーなのだけれど、1つ1つのエピソードからは現実的なものを感じた。
映画の最後に近い場面で、とつ子ちゃんが、ふっと自分の色を見る瞬間がある。色々なものの暗示であり、観る人1人1人が自分なりに解釈をすればいいと思うけれど、私はシンプルに、「自分のすてきなところ。きれいなところ」だと受け取った。
とつ子は、人のすてきなところを見つけられるけれど、自分の持つ魅力にはまだ自覚的ではない。自分の魅力って、見つけようって無理やり探すのではなく、自分の想いを解放した先に、ふっと感じられるものなのかもしれないなぁ。
「大人になってから高校時代を思い出すような映像だった」と書いたのだけれど、その想いは、最後にミスチルの音楽を聴いたから、余計に感じられた。今の高校生ではなく、あの頃の高校生が想起する、「まだ自分がナニモノでもなかった頃の音楽」。
ミスチルの曲を聴きながら、エンドロールの「取材協力」のところに出身校の名前を見つけて、私は、ふっと安心したような気持ちになったのだ。あの頃の自分を、ちゃんと見つけたような気持ちになった。不思議なものだけれど。
心の中に、ずっと暖かいものがたまっているような、そんな映画だった。