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映画「ルックバック」藤野の「私のせいだ」は感動ポイントなのか(超辛口レビュー)

先日2回目の鑑賞をしたのでまたもや映画「ルックバック」について。
初回鑑賞時に書きかけてた文章に手を加えて掲載。
前回掲載まで至らなかったのは超辛口レビューだったから。
でも手を加えてもやっぱり超辛口だったので諦めて超辛口のまま掲載することにした。
ので辛口苦手な人は回れ右をお勧めします。
以下は超辛口でも耐えられる人だけお読みください。





で、表題通りなんですが、藤野の「私のせいだ」はおそらく一般的には感動ポイントなんだろうなとは思うんですよ。一応。
気まずい別れ方になった京本の死に対して自分に責任があると感じるなんて、なんて優しいんだろうって多分なるんでしょうね(私はならなかったのでただの推測)
ただ前も書いた通り私自身は藤野ではなく京本が主成分で若干犯人も入っているので、私にとっては感動ポイントではなかったんですね。

では私はそのセリフをどう感じたのか?というと

「え?そっち?そっちを後悔してるの?ええ?」

である。

前回のレビューでも書いたが、藤野と京本はお互いを補完しあって順調に漫画家としてステップアップしていったけど、その関係性は非対称的であった。
極論すると藤野が京本を従属させていて、対等ではなかったように私には見えた。
そしてその極北が二人の道が分かれたあの時の藤野の支配欲むき出しの言葉の数々である。
もちろん未熟なハイティーンかつ寂しさを素直に開示できない性格ゆえの発言であることも了解はした上で、それでも人が支配的に振る舞うさまを見るのは、作り話と理解していてもしんどかった。
そしてくだんの「私のせいだ」もこの支配的関係の延長線上にあるように思えたのだ。

というのは、この「私のせいだ」は藤野が自分の影響力を京本に行使し、その人生を左右する力と権利が(かつて)とあったと確信していないと出てこないセリフだからだ。

「なぜこんなことになったのか」
と記憶を辿るのではなくいきなり
「私のせいだ」
なのである。
そりゃ58分という尺の短い映画だからという演出上の理由もあるかもしれないが。

冷静に考えると分岐点は卒業証書を届けたあの時以外にもあって、たとえば京本が美大に行く選択をしなければ事件に遭うこともなかったはずだ。
その考え方でいけば「美大進学をあの時もっと強く止めていたら」になる。
まああの時の言い草はいくら京本の不意打ちにショックを受けたためとはいえ猛烈な支配欲行使で酷い言い分だったけども…。

しかし内容の如何いかんはとりあえず今は置いておいて本題は、そういう他の分岐点に思い至ることなく発した
「京本っ 部屋から出さなきゃ 死ぬことなかったのにっ」
である。

その、「部屋から出した」も藤野の意思ではない。
成り行きである。
もちろんちょっとダークな悪戯いたずらごころで描いた4コマ漫画が京本の手に偶然渡ってしまったことがそもそもの原因ではある。
あるのだが幸運なことに京本は藤野の大ファンであったので、嫌味な当てつけ漫画であることも意に介さず「先生」に気持ちを伝えたくて自分の意思で外に出たのである。

とはいえ京本に読ませるつもりで描いたわけではなく不幸な(幸福な)偶然で京本の手に届いてしまったのだから、嫌味な漫画を描いたこと自体を責めるつもりは私ももちろんないのだけど。

まあそんな感じでそもそもそのダークな気持ちが京本に(4コマ漫画が不可測に部屋に滑り込み)伝わってしまって最初慌てた藤野である。
それなのにファンだと言われたらすべてが吹っ飛んでしまったらしい。
いや、小学生だから仕方ないんだけど。

でも後々大人になってまでも、ふと思い返してみた時にそのダークな気持ちが動機であったことも、全部忘れてしまったのか、疑問に思わなかったのだろうかと私は不思議になったのである。
何にせよあの漫画はちょっとした当てつけの嫌がらせに私には思えた。
それがいつの間に引きこもりの京本を藤野の意思で「部屋から出して『あげる』」ための「善意のマジックツール」になったのだろうか。

とはいえ表面的な態度に比して藤野って意地悪なわけでは多分ないんだよね。
引きこもりニートオタクにはないリア充JCスキルを用いて漫画賞の賞金で京本を目一杯遊びに連れ出してくれたわけで、考えてみると姉御肌なのかもしれない。
(ただ、藤野流のジョークなのは理解できるが、10万おろして目一杯遊んで5,000円しか使いきれなかったのに、お礼が10万でいい、はガメツイなーと思ってしまったのは内緒だ)

その姉御肌もあいって「美大進学をあの時もっと強く止めていたら」ではなく「京本を部屋から出さなければ」であるところに、藤野の己の京本への影響力に対する疑問のなさ、自己肯定感を超えた自己過信をつくづく感じた。
この発言に京本の人生を決定的に変え(てあげ)たのは自分だ、という自負の香りを感じるのは私の気のせいだろうか。
それが2人の関係性において私の感じる「非対称性」をさらに補強したと言える。

もうひとつ指摘するならば、前述の街で藤野が京本の手を引いていたシーンの繰り返しもひとつのポイントであった。
そこで私は初回鑑賞時に藤野が後ろの京本を振り返っていなかったと勘違いした。
しかし見返してみて実は藤野がちゃんと京本を振り返っていたことに気がついた。
ので「振り返っていなかった」と思い込んだのは藤野に申し訳ないとは思った…のだが。

しかし、正直なところ、藤野に京本が手を引かれるあのシーンは、私にとっては正視し難いシーンでもあった。
否、むしろ正視に耐えなかったからこそ「振り返っていなかったと勘違いした」のだと思う。

なぜ正視に耐えなかったのか?
それは引きこもりからの街遊びデビューの京本には新鮮で楽しすぎて自覚できなかったことだとは思うが、あのシーンの極端なパースの奥行きはそのまま心理的主従関係、上下関係の距離感そのままだったからである。

かつ、京本の笑顔のデフォルトが気後れ気味のはにかんだものである。
ちょっと居心地の悪さも同時に感じてるような、「自分がここにいていいのかな」感があるような、そんな顔である。
それは一種の負の感情、たとえばあえて乱暴な表現をすると「卑屈さ」「引け目」の香りを伴った笑顔。
とも言える。
こんな微妙な表情を描き分ける本作アニメーターの、負の感情に対する解像度の高さが恐ろしい。
とも言えるのだが。

つまり、単なるキャッキャうふふ(金カムだとキャッキャッ ウフフフ…だろうか)のシーンではなく、
リア充JCライフのひよこで純粋に楽しいはずの京本の笑顔に不安の卵の殻の欠片がいつまでもくっついているかのような
そして
あくまで藤野に手を引かれなければリアル世界を泳いで行けないのだと刷り込んでいるかのような
そんな印象を受けたのだった。

その京本が卑屈さ、引け目のない笑顔を見せたように感じたMAXは
「じゃあ、藤野ちゃんは何で描いてるの?」
のあたりで見せた、手にした原稿の向こうから微笑んだ笑顔である。
他には、漫画賞受賞した時の笑顔と2人で描き続けていた頃の回想シーン中の笑顔。

そんな感じで京本の笑顔のデフォルトはちょっとはにかんだ、一歩引いた笑顔だと感じたのだった。

かつ、声優の声を当てられた(声に出してはっきり表された)藤野の京本へのセリフのことごとくの(一部を除く)ザックリ要旨をまとめると、「あんたは私の下よ!」と上下関係を固定しようというものばかりだった。
もちろんそれらは藤野の中では「違う才能を持つ者同士の切磋琢磨宣言」なのだろうが、彼女のパーソナリティが捻じ曲げて居丈高なセリフを言わせるのである。
そして、藤野は有言実行なところが美点なので、言ったからには本当に人には見せない努力をして実現するところは偉いとは思う。

けれども、
「あんたは私の下よ!」
毒親に育てられた子供にはキツすぎるセリフでもあるのだった。
毒親はそうやって上下関係を子供に叩き込み、自分に都合よく子供を使い倒す気満々の人種だからである。

藤野が京本を使い倒す気満々だったかと問われると、使い倒すかどうかはともかくとして、京本が自立したがるまでは少なくとも自分の意向通りに動いてくれると思い込んでたわけである。

ただもちろん藤野は毒親とは違うので、最終的には京本の意思を尊重して自分の権力下から解放することになったが。

そんなわけで私が気になって仕方なかったのは2人の対等ではない立場(たとえばリア充↔︎引きこもり、先生↔︎ファン、部屋から出してあげた↔︎部屋から出してもらった、漫画家↔︎背景アシ、「藤野ちゃんみたいにウマくなる」↔︎「京本も私の背中みて成長する」…などなど)で、言うなれば藤野だけに有利な不平等条約のもと成り立っていた二人の関係の権力勾配に、最後まで藤野自身はまったく斟酌することがなかったことである。

繰り返しになるが、この「私のせいだ」は藤野が自分の影響力を京本に行使し、その人生を左右する力と権利が(かつて)とあったと確信していないと出てこないセリフだと思える。
不平等な権力勾配を最後まで自覚することなく「自分のせい=自分の権力で部屋から出したせい」としているからである。

私としては京本の死を知ったことでその不平等さを初めて自覚するのかと思っていたのだ。
あまりに最初から一見不平等で、対等な人間としての扱いではないようにずっと見えていたので。
あまりに人間関係としてはバランスを逸していたように見えたので。
藤野が腹の中でどう思ってたかはともかくとして、対京本での言動はほぼ「自分が上!」というマウント取りの態勢だったからである。
なので、このような事態になって初めて腹の中を開陳するのかと思っていたのだ。

とはいえこれは京本の自己肯定感の低さのせいもあると思うが。

そりゃ藤野から見れば心地よい関係であったろうとは思う。
一心に自分の背中を追いかけて天才だ先生のファンだと崇め奉ってくれてすべての時間を費やして背景アシスタントとして自分の満足のいく背景を描いて幾多の修羅場を一緒に潜り抜けてくれた仲間である。
ただでも高い自己評価のピノキオの鼻がどんどん伸びていくのもむべなるかな。

もちろん京本だって楽しい心地よいとは思ってたとは思うが。
ただそれは良いご主人様を持った奴隷のような心地良さであったのではないか。
心地良いというか藤野に対して一方的に都合良すぎではないかとすら思う。
それがバランスを逸してると感じる由縁ゆえんである。
なので前回レビューでも書いたが、この関係が長く続くことはなくほどなく破綻することは既定路線と思って見ていたし、事実そうなった。
むしろ、鑑賞中いつこれが破綻するのだろうとずっとハラハラしていたというのが本音である。

そんなわけで、私の目には藤野は「毒親張りの上下関係を刷り込んで京本をお気に入りの心地よい痒いところに手が届く便利な奴隷ポジションと京本の自立までは(腹の中はともかく)扱ってて、京本の死に際しても過去の自分の行使できていた権力構造を疑ってなかったんだなあ」と映ったのであった。

何度か書いたが「腹の中はともかく」というのもこの作品のポイントである。
一見毒親とその子供のような権力勾配スレスレの特異な思春期のクリエイター同士の友人関係をえがきつつ、紙一重のところでかわしながら毒親との違いを行動のみで表す藤野の人物造型は際どいなあと思う。
原作者の手腕によるものか、映画監督の手腕によるものか、あるいはその両方の相乗効果か。

一般的には素直な感動になるところを、私のような捻くれ者はエグいラインをギリギリでかわしつつそのライン取りのエグさを見せつけられたと感じた。
これもある意味ベクトルの異なる感動(感情が動いた)ではなかろうか。
そういう意味ではこれは私にとっても感動作と言えるのかもしれない。
そもそもこれだけの字数を費やしてレビューを書くこと自体が、心が動かなくてはできないことであるから。

そういう意味では、表題の疑問に対するアンサーは
「藤野の『私のせいだ』は私にとってもある意味感動ポイントだった」となるだろう。
ただし、一般的な「感動」とはかなり異なるけれども。

それでも一応この文章のオチはついたと思うので、今回はここまで。

…と思ったのに余談になるが、他のルックバックレビュー読んでて、「こんな感動作を泣きもせず無音で見てる他の観客に『お前ら人間じゃねえ』」(麻宮サキ???)とまで言い切るメディア関係者を名乗る人のものがあったので大層驚いたことを付言しておく。
すまんね感動で泣くどころかこんな超辛口レビューで。
自分の感性だけが唯一無二の正解と信じてないとこんな暴言吐けないと思うので、多種多様な感性のクリエイター育てる仕事は正直この方には向いてないのではと老婆心ながら思ったことを付け加えておく。



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