予備知識なく映画「ルックバック」を見て感心した演出の話
映画の「ルックバック」を見た。
noteでその名前が降り始めの雨のようにポツリ、ポツリと目につき始め、そのうち私へのおすすめnoteに五月雨のようにさらそらしとしととよく目にするようになった。
それで、相方にも上記の旨を伝えて、見に行くことにしたのだった。
結果、見に行って大変よかったと思う。
この作品への深い考察や、黒歴史を持つ自分を含めたオタクにいかに刺さる作品なのかはおそらく語り尽くされていると思うのでそこは省略し、表題通り非常に感心した演出について書いてみる。
単純に風景が美しいだけでなく、雪国の雪の描写が本当にリアル(溶けかけのもったりしたシャーベット状の雪をバシャバシャ踏む描写など)なのと陽光に照り映える田圃の描写の非常な美しさ、そして特に京本の家の木造家屋の鈍く優しい照り方の光なども吸い込まれるように美しかったこと
前項の京本の家の板壁などの鈍く優しい光や素朴な美しさは彼女のパーソナリティの暗喩の可能性
風景描写や背景画が大変に美しいことは論を俟たないが、その映画の中の人物画の整理された漫画的描画と、かなりリアルさを追求した背景画の対比が、そのまま藤野の漫画内における藤野作画の人物画と京本の描く背景画の対比とオーバーラップしていること。
藤野と京本の2人のシーンでは藤野はブルーまたはグリーン系、京本は赤系またはピンク系のファッションとなっていること。これは2人のパーソナリティの暗喩の可能性。藤野は表面的にクールぶる性格がブルーやグリーンで暗喩され、京本の赤系とピンク系(言い方を変えるとこれも赤系)は彼女のまっすぐな赤心の暗喩の可能性
※後日2回目の鑑賞をしたので追記。
↑の2人のファッションのカラーリング、大体は合ってたけど、厳密には藤野はブルー・グリーンの次にイエローも着てて、1回だけ赤系を着てた。2人が手を繋いで駆けていく描写が繰り返されるが、その手の握り方が再度繰り返された時には指が外れかける描写が加わり、後の2人の道が分たれることの暗示
季節の移り変わりで年月の経過を美しく描写しているが、その中の夜空に蠍座が描写されていたこと。この蠍座に意味がないとは考えられないので複数の可能性を考えた。
※後日2回目の鑑賞をしたので追記。
↑の蠍座のシーンは季節の移り変わりじゃなくて京本が藤野と袂を分つシーンの最後だった。ので藤野の言葉を割と直接的に蠍の毒針に見立ててるのかもしれない。まず藤野の中に(京本の藤野への純粋な尊敬などでとりあえず雲散霧消したかに見える)コンプレックスの毒の針を胸の奥にまだ隠し持っており、その毒針を刺した暗喩
次に京本の心が『その瞬間』に「銀河鉄道の夜」の蠍のような心境だった暗喩の可能性(「どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください」 )
さらにその後後悔する藤野も「銀河鉄道の夜」の蠍のような心境を覚えた暗喩の可能性
とはいえ、蠍に関しては私の考えすぎかもしれない。
ただ最近ますむらひろし氏による銀河鉄道の夜、宮沢賢治の童話シリーズ、そして銀河鉄道の夜 四次稿編を縁あって揃えたこともあり、最近山形県付いていることを相方に指摘された。
これは一種のセレンディピティとも言えるかもしれない。
ともあれ、コンパクトでまったく無駄がないのに積み重ねられるエピソードや描写に非常なる余情があり、これはとても完成度が高いと感じた。
また、その後原作も購入して読んだがまったく原作を損なうこともなく、リスペクトを持って丁寧に作られた作品だと感じた。
できれば再鑑賞したいと思う。
(実は上映館が近くにないので一日かけて出かけなければならずハードルが高いのであった)