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俺がぶっ飛ばしてやるよ
青春時代を振り返ることは、壮大なエネルギーを要する。
垢抜けない自分、男子とうまく話せなかったこと、思春期特有の息苦しさ。
そういったものを、ブワッと思い出してしまうからだ。
しかし、たまには、立ち止まって、思い返してみるのも、悪くない。
10年も経てば、随分客観視できるようになるものだ。
いけてないエピソードを、脳内でトークする。
目の前にはビデオカメラ。これから、YouTube用に動画を撮影する。タイトルは「【鳥肌注意】卒アル見返してみた」とでもしておこう。卒業アルバムをめくりながら、「これは陸上大会の写真ですね。当たり前に、私は写ってないですね。なんていうか、見事にイケてる人、モテる人しかいないですね」とか口を挟んでいく。
この動画の締めくくりは、「子どもだったでしょ?ウケるよね」。これで、一つ、苦い過去が昇華される。ひとりYouTuberごっこをするくらい、あの頃は相当過去のものになった。そのことが嬉しい。過去を過去と実感できることで、身軽になれるのだ。
学生時代のジメジメに寄り添ってくれるカルチャーは、たくさんある。音楽ももちろんそうなのだが、青春と葛藤を描いた林真理子の長編小説「葡萄が目にしみる」が特に個人的に代表的な存在だ。しかし、本作品に出会ったのは、20代前半。とっくに学生を卒業していた。もっと早く出会いたかった!と思わずにはいられない。
乃里子たちふつうの女の子は、タオルで汗をぬぐう男の子たちを、教室の窓からそっと眺めることしかできない。けれども真知子たちは違う。ブルマーを履いて、スポーツをやっているだけで、あたかも彼らと親しくつきあう権利があるかのようにふるまう。
真知子が飲みさしのジュースを、野球部の岡部君に手渡し、それを何のためらいもなく岡部君が飲み干すのを乃里子は見たことがある。
この物語の時代設定は、70年代である。
こんなに昔から、ヒエラルキーって存在するんだ、と私はびっくりした。
ヒエラルキーのワードこそ浸透していないが、クラス内の陽キャ・隠キャの区別は、半世紀前から存在していたのだ。あの子とあの子、同じクラスで同じ制服着ているのに、何かが違う。その違いを、林真理子は、上記のようなシーンで書き表している。
ブルマー姿の脚を、男子の前でさらけ出すことができる振る舞い。
間接キスに躊躇しない、ませた態度。
どれも、イケてる女子がやることだ。
こういうことしたい、と思ったのだ。こんな風に、ヒエラルキーを、ヒエラルキーという言葉以外で表現したい。ヒエラルキーを、勝手に気にして、勝手に悶々とする女の子の心のうちを丁寧に形にしたい。しかし、私には、ヒエラルキーをヒエラルキー以外で表す技量を持ち合わせていなかった。いざ書くとなると、何も書けない。だから、もっと、本を読むことにした。今も、その最中だ。
私が、ヒエラルキーに直面したのは、中学1年生の頃だった。まだ制服が身体に馴染んでいない、入学当初。
通っていた中学校では、リサイクルのためにペットボトルキャップの回収を行っていた。私も親に言われるがまま、家で集めた、袋いっぱいになったキャップを、廊下にある専用ボックスに寄付していた。
この専用ボックスの開口部が、キャップ1個分と小さいため、大量に持っていったところで、1個ずつ、ボックスに投入しなくてはならない。結構時間がかかる。
キャップでぱんぱんになった袋を片手にし、ボックスの前でもたもたしてしまうのは、私だけではないはず。面倒くさがって、寄付すんの、やーめた、とその場を颯爽と去る人もいるかもしれないが、当時の私はそこまで不良ではなかった。
えー、大変そうだね、と声をかけてきたのは、隣のクラスの、体験入部で話すようになった女の子だ。結局別々の部活に入部することになった彼女は、ちょっとヤンチャで、かといって大人しい私にもフレンドリーに話しかけてくれたので、そこまで威圧感を感じることもなかった。
彼女の周りには、数人の男女がいて、他クラスで特に話したこともない、ツンツンの髪型の男子がキャップの投入を手伝ってくれた。グループの中には、同じクラスで、密かにかっこいいなあと思っている男子もいた。私と同じ小学校の女子もいたので、どういう繋がりかわからなかったが、この時に、「この人たち、なんか違う」と察したのだ。
これが、ヒエラルキーとの出会いである。みどり史27年間における、ターニングポイント。ここ、テストに出るよ!
入学して間もないので、過度に制服を着崩したり、髪を明るくしたりする人はいなかった。決して不良グループの集まりではない。冷やかしの空気を感じたわけでもない。現に、手こずっている自分を手伝ってくれたので、やな奴らではないのだ。ただ、男女で廊下にたむろしている光景は、自分よりも大人に感じた。小学校6年間、クラス替えなく、ぬくぬく過ごした自分には、刺激が強かったようだ。
当時、「葡萄が目にしみる」と出会っていたら。
このモヤモヤとした、ヒエラルキーとの直面に、そこまでビビらずに過ごせたのに。
誰にも話せない、形がないものへの葛藤に苦しむ人間が、私だけじゃないって、救われた気持ちになれたのに。
あの頃から10年ほど経って、「今も昔も、思春期は思春期なんだ」と、腑に落ちることができた。救われるのに、時間がかかった。
廊下での、新たな出会いがあってからも、日常は過ぎていった。プロフィール帳を書いたり、書いてもらったり、クラスの人とどんどん話せるようになったり、かと思いきや、気になっていた人に年上の彼女ができて、落胆したりした。
多感な時期、慣れない環境。不良こそならなかったが、周りの目線が気になることが増えた。優しいと思っていた人が誰かを悪く言うことは日常茶飯事だったし、ヒソヒソ話を目の前でされたら、自分のことなんじゃないかと勘繰ってしまう。今でも、ヒソヒソ話は大嫌い。法で取り締まってほしいくらい。
体育祭も終わり、夏が近づいてきた頃。コップ並々に注がれた水が、溢れてしまうような出来事が起こる。
昼休み、歯磨きを終えた私は、小学校からの友人で、隣のクラスにいるMちゃんと廊下で待ち合わせしていた。Mちゃんは私に会うなり、「みどちゃん、口に歯磨き粉ついてる」と指摘してくれた。
あ、やべっ、ありがとー、で済む話だ。しかし、当時の私は、歯磨き粉をつけたままの自分はなんてカッコ悪いんだ、バカにされる、と怯えてしまった。ヒソヒソ話のボリュームが、大きくなる感覚がした。話の内容なんて聞きたくないのに、耳に入ってしまいそうだった。
どうしようもなくて、私は静かに泣いた。コップの水が溢れた。泣いている私の横で、「どうしたの、みどちゃん」とMちゃんは心配してくれた。「ごめんね」と繰り返し謝ってくれたが、Mちゃんは1ミクロンも悪いことをしていない。あたふたしているMちゃんと、俯いて泣いている私に、別のクラスで、同じ小学校だった男の子2人組が話しかけてきた。「あー、泣かした」と茶化されて、もっと慌てて涙目になるMちゃんと、涙が止まらない私。もうひとりの男の子は、からかうことなく、こう言ってきた。
「誰かに何か言われたか。俺が、ぶっ飛ばしてやるよ」
うまく返事ができず、しゃっくりを上げた。
あの時の私は、誰を、何を、ぶっ飛ばして欲しかったんだろう。
ヒソヒソ話をしている女子。平気な顔で悪口を言う女子。それを広める女子。片思いの男子。廊下でたむろしている男女。誰が憎いのか。コップの水を並々にしてきたのは、どこのどいつだ。
犯人は、誰でもなく、私なんだと思う。
自分が、勝手にヒエラルキーを創造し、ヒソヒソ話の内容を膨らませた。あの時、ぶっ飛ばしたかったのは、自分自身だ。しかし、「そいつをぶっ飛ばしてやるよ」という優しいセリフを欲してた、甘えだってある。自分自身を殴れるほど、大人ではなかった。
学校という小さな世界にぎゅうぎゅうに押し込まれ、その世界で仲良くやろうって、よく生きてこれたな。拠り所が少ないことは、死ぬほど心細い。歳をとると、同じクラスの友達、趣味で繋がった人、職場の人・・・と世界が増えていく。中学生の頃は、学校が全てだった。本当は、自分をぶっ飛ばしたかったけど、学校が吹っ飛べばいいのに、と思っていた。
「苦しかったのは自分だけではない」と、「葡萄が目にしみる」を読み終えて、強く感じた。仲間が、ちゃんといた。
主人公・乃里子は、葡萄農家が盛んな田舎で育ち、高校卒業後、都内の大学へ進学する。田舎での出来事を、綺麗さっぱり忘れるため。バリバリのキャリアーウーマンになった乃里子は、高校時代片思いしていた男子・岩永と再会を果たすのだが、乃里子はその再会を経て、ようやく思い出の清算ができたのだ。
過去の人との再会なんて、そんなに簡単できるものではないと思う。今はSNSが浸透しているけど、もちろん全員がインスタやXをやっているわけではないし、昔憧れていた人が、結婚していたり、家庭を築いていたりすることは、可能性として大いにあり得てくる。
再会できなくても、振り返ってみるだけで、よかったりする。案外簡単である。簡単な上、苦い過去だけではなく、些細な楽しい出来事が思い出される。
思い出すんじゃなくて、覚えている。
覚えているのに、どこか引き出しに入れっぱなしにしている。
久しぶりに引き出しを開けると、埃臭い。埃臭いから、定期的に天日干ししてあげたい。
天日干しが終わったら、「子どもだったんだねえ」と呆れるところまでが、セットである。