迷子になる、もう戻れないかもしれない(野村日魚子著『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』書評)
この明るい明るい日本で、私たちはもう迷子になることはできない。
街中に監視カメラが張り巡らされ、GPSを搭載したスマホを私たちは自発的に持ちながら、ビックデータの要素の一つとして、もはや追跡されないことはない。無論、田舎では未だに共同監視社会が温存されたまま、共益に反する個人の存在は許されない。すなわち、この日本のどこででも、私たちは迷子になることはできない。
それはとても素晴らしいことである。神隠しという名で犯罪が容認されてきた日本において、迷子が許されることは安全な暮らしを脅かす。
しかし、私たちは愚かで、迷子になりたいときがあるのだ。たとえ、神隠しの名のもとに命や自由が絶たれるとしてもだ。我慢できなくなった私たちは、発狂し、泣き叫び、閉鎖病棟に閉じ込められ、結局迷子になることは許されない。しかし、迷子になりたいのだ。
ただ一つ、迷子になる一縷の望みが自らの精神世界への逃避である。しかし、私たちは煩悩にまみれ、そう簡単に精神世界に沈み込むことはできない。案内役が必要だ。そう、その案内役こそが、野村日魚子著「百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た」である。
歌集は、この一首からはじまる。この歌を読んだ瞬間、私たちの地面はぐにゃぐにゃになる。この歌の主体は誰なのだろうか。犬よ、と呼び掛けている者なのか、呼びかけられている犬なのか、いや、夜かもしれないし、墓に眠る者かもしれない。「死者の章」と小題の付けられた短歌群の中で、私たちは「主体」という身体を失って歩きはじめる。
この世界では、生死の境はぐにゃぐにゃである。だから、生者と死者がどうも行ったり来たりしている。「Ⅰ 死者の章」においては、絵巻物のように描かれる死者の世界が、モンタージュ的に映し出されている。
死を悼もうとするもの、恨み続けるもの、死者を寝かしつけるもの、人間の生死の判断方法を教わるもの、それぞれが自由に存在している。一方、死者が生者に戻ることはない。一見、自由に描かれている世界でも、不可逆的な死そのものは頑として存在していて、その揺るぎなさにひるみながら、死者と生者の交流を私たちは見ていく。
空腹を満たし、睡眠にいざなわれるこの一首で死者の章は幕を閉じる。冒頭の歌と共通して表れる「夜」という言葉。この章の主体は夜なのかもしれない。優しく寝かしつけられた夜は就寝し、次の章が始まる。
この歌から「Ⅱ 生きている人間たちの章」がはじまる。「生」は「死」の対義語として存在する。一方、ゾンビは、身体は生きているが、脳は死んでいる状態で、生死の判別がままならない。そして、この章では時間もぐにゃぐにゃになってしまう。
私たちは過去・現在・未来をきちんと認識していると疑わずに生きている。しかし、時間の把握の感覚は人によってバラバラだ。時間はぐにゃぐにゃに把握すべきなのだ。
この章の世界では、どうやら人間になったり、人間でなくなったりするようだ。そして、隔たれた世界をどうやら行き来できるようでもある。私たちは、生きることに価値があると考えるように教育され、いつの間にか自動思考が働くようになっているが、ここではそうではない。「Ⅱ」でくくられたこの短歌群は「( )」と題された一連の歌に続く。
カッコでくくられた空白。その空白は、喪失を意味しているようで、私たちは欠けているものを見れば埋めなければならないような気になってしまう(そして実際にそうする)。しかし、その行動は「埋める」ということが自己目的化している。その光景は、滑稽で、優しい。「死者の世界」「生きている人間たちの世界」を巡ってきた私たちはついに最後の世界「Ⅲ 嵐になる」(もはや「章」でもない!)にたどり着く。
「わたし」と「あなた」が愛によってつながっている。しかし、「あなた」には病や死がちらつき続け、その愛は永遠でないようである。精神世界のような叙述だが、喪服や雨のような具体的なものも登場して、イメージが膨らんでいく。ただ、確かなものはよくわからないままだ。私たちは、物語に接するとき、自然と登場するものに感情移入することで、読みを深めてしまう。私たちは、この歌集を読んでいる間、ずっと浮遊しながら世界を漂う。思考も身体感覚も確かにあるのに、整列していない。私たちは、いつの間にか現実世界から自由になっている。
この歌集は、表題になっているこの短歌が5ページにわたって掲載されて幕が下りる。この歌では、さまざまな論理がねじれている。百年後の話をした二人が実際に百年後を見ているのは、現在の人間の寿命からは不可能だ。「嵐のように」恋がしたいといったのに、嵐になったことを「実際」と捉えている。「すべてがこわれ」たにもかかわらず、二人だけが無事である。よもや主体は人間でなく、自然や時間のような概念かもしれない。この歌集を通じて、人間の生死だけでなく、人間と動物、自然、さらには概念が自由に行き来するような世界で、私たちは最後まで、主体が何者なのか、ということを揺るがせながら、しかし、局所的にははっきりと捉えられることを目の当たりにし続ける。
私たちの生きている世界は、論理的すぎる。時間は正確に進むし、人間はちゃんと感情的になるし、自然も一定の法則に従っている。しかし、私たちは、ときにそんな理路整然とした世界が嫌になって、いもしない神様にすがったり、隠されたりして不幸になる。短歌は詩であり、詩は世界である。生身の肉体が呼吸をするこの世界とは別の世界で迷子になる。そしてもう戻れないかもしれないと思いながら、その魅力的な世界に私たちの思考も身体も溶けていく。野村日魚子の描く世界は、自由で、おそろしい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?