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エモ短歌 読んでるうちに 心越え
涙出てくる、ぼやけてくるの
即席ではそんな歌しか読めっこのないわたしである。
これを書いてからほんの数十分後くらいに「うたらば」という場所を見つけた。短歌×写真の作品たちを掲載しているフリーペーパー。毎月単語ひとつのお題をさだめて歌を募集しているそうだった。
サイトにはWEB版で読めるバックナンバーが何冊かある。今も公開されているのは「祝う」「駅」「青春」などなど。佳作の中にも思わず天を仰いでしまう31字がひそんでいたりで、冒頭の通りなぜだか次第に泣けてきた。
それは詠み手のまわりだけ空気の純度が上ずったような透明感によるものだったのかもしれない。あるいはわたしが、誰かの白昼夢を外側から覗き込んだがゆえに生じた浮遊感のせいかもしれない。
また、短歌以外にも「うたらば」における選歌基準もすごく参考になった。考えさせられるものがあった。
1つは「読み手に想像の余地を残す」こと。直接的な言葉で感情を表現しない、あるいは全てを言いきらない。わたしはこれがあまり得意なほうではなくて、だから短歌は基本、鑑賞だけにとどめている。
五七五・七七は、何かどうしても「リズムの良い短文を作る」みたいな感覚に縛られるのだ。五と七の音数に合わせるように言葉を選ぶ、伝えたいことの全部を三十一に凝縮する、そんな意識が抜けきらない。どちらかといえば作詞の感覚に近いはずだ。
それは短歌とはまた違ったもので。素敵な短歌は「言ってくれなきゃ分かんないよ」を「そのままずっと、言わないでいて」に変えていく。伝えるために伝えない。余韻がただの余韻じゃない。
一方のわたしは「明確に描写すること」を前提とし、そのあとの単語の選別に迷いたがる人間だ。したがって読み手の想像に委ねることはあまり向いていないように感じる。だけど密かに身につけたいとも夢見るスキル。
「うたらば」の選歌基準、他にもう1つ「適度なレトリックと詩情」には反対にウンウンと頷いた。これはわたしが常日頃から心がけていることでもあるため。ハッキリ言えば「あまり難読させるなよ」と。
書き手の個性が溢れる「比喩」は芸術分野の言葉に欠かせない技術だが、拘りに凝ってやってしまうと何かイマイチ伝わらないものになる。
だから脳みそを絞り尽くした挙句、思いつかずに結局辞書から引っぱってきた高尚な語彙はあまり使わないほうが良い。
比喩に換えたい事柄を思い浮かべて目を閉じて、あ、何とな~くこんなふうに見えてきた、と思った言葉をそのまま宛てる。くらいがちょうど良いと感じる。
「うたらば」においてそんな短歌に出会うとき、これを詠んだ見知らぬ誰かの閉じたまぶたが美しかった。
どんな短歌が好きだったかは、ここでは割愛。「何を言わずにいるか」というのも、ある種の美学になるらしい。