一旦死んで蘇る日

あけましておめでとうございます。

今年は2月10日が、旧暦の正月のようだ。
旧暦を意識して生活している訳ではないが、
正月に関しては、旧暦のほうが、からだに
しっくりくる。

年賀状に、「迎春」とか「初春」とか
書いても、1月では全然、春が来たなあ、
なんて思っていない。
まだまだ、真冬真っ只中という感じ。

旧暦の正月あたりでやっと、
ああ、春が来たなあ、来そうやなあ、
と思う。


「土井善晴とクリス智子が料理を哲学する」
というポッドキャストをよく聴いている。

料理ってそもそもなに?
という、面白いお話をしている番組だ。
土井善晴の軽快な京都弁が、耳にきもちいい。

少し前、なぜ正月におもちを食べるのか、
という話をしていたのが心に残った。

土井善晴が、だいたいこんなようなことを
語っていた。

『普段はごはん粒を潰すなんて考えられない
でしょ。おはぎにするとき、半分くらいごはんを潰すのを、"半殺しにする"て言うでしょ。

おもちは、完全に潰すんですよ。 
死ぬんですよ。死んで別の姿に生まれ変わるのがおもちなんですよ。』


『お屠蘇も、屠って、蘇るって書くでしょ。
一旦死ぬんですよ。そして蘇る。

日本人は、正月にこういうものを身体にいれて、一旦初期化するんですよ。
一旦けじめをつけて、またクリアにして、
また、今年はこうするぞって、やるんですよ』

「料理を哲学する」より

なんだか、腑に落ちた。そうだったのか。
まあ、諸説あるのだろうが、私はこの話が
すきだし、これを信じていく。


毎年12月30日に、子供達を連れて実家へ
帰り、正月に食べるおもちを作るのが恒例に
なっている。

電動の餅つき機で、餅米をいれたら
勝手に蒸して、ウィンウィンやって、
1時間後には勝手に完成する、お手軽な
おもち作りだ。

しかし、おもちを作ったことがある方なら
わかると思うが、おもち作りはとにかく
ここからが、1人ではできない。

あっついあっついといいながら、
1人がちぎり、熱いうちに、他の人が
丸めないといけない。

冷めたらおしまいだから、のらりくらりと
してはいられない。
老いた父と母、2人で作る事も難しい。
まして1人で作れるものではない。

大勢が、おもちを作ろうと思って、集まる。
大変なことだ。予定を合わせて。
足並みを揃えて。有り難い事だ。

有り難いからありがたいんだな、おもち。

1月にも食べたけど、やっぱりもう一回
おもちを食べよっかな。

そしてまた、都合よく、仕切り直すか。



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