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娘に「あそぼうよ」と言われて、ふと「あそぶとは…?」と思った件について

2歳の娘のかわいさは異常だ。何をしてもかわいい。食べたり飲んだり泣いたり走ったり笑ったり…。じっと観察していたくなるので、仕事をしたくなくなってしまう。仕事どころではない。もうずっと見ていたい。
目に入れたら痛いんだろうけど、目に入れても痛くないという意味不明な言い回しも、なんとなくわかる気がする程度に娘はかわいい。

夜ご飯が食べ終わると、すぐにおもちゃを取り出してきて「おいでおいで〜」と私を誘う。
でも昨日はお酒を飲んでいる途中だったのですぐに行けずにダラダラしているといきなり「パパ、あちゅまれー!」と言い出した。
思わず「どうぶつの森か」と突っ込むと妻が笑った。

そしていつもの如く「あそぼうよ〜」と言う。
そこでふと思ったのだ。
「あそぼう」ってなんだ、と。
調べてみると以下のような意味があることを知った。

あす・ぶ【遊】
思うことをして心を慰める。 遊戯をしたり、気楽に歩いたり、遊興したりす仕事や勉強をせず、また、職が得られずぶらぶらする。
(おとななら実生活の煩いを離れ)物事を楽しむ。
有意義な働きをしない状態にある。

なるほど。思うことをして心を慰めるとな。
もちろん娘はそんな子を考えていないだろうけど、とにかく物事を楽しむことを遊ぶというらしい。
娘からしたら、
おもちゃを使って何かをする
追いかけっこをする
お絵描きをするのを見てもらう
全部「あそび」になる。

「あそぼうよ」と言わなくなったのはいつからだろうか。
大人になってからはもう「飲みに行こうぜ」しか言ったことがない。
または「フットサルいかない?」とか、「高尾山でも登らない?」とか、具体的な誘いかたになる。
というか、小さい頃だって「校庭でサッカーしようよ」とは言っていた記憶はあるものの、「あそぼうよ」なんて言ったことあったっけ?と思う。

「パパー、いっしょにあそぼうよーー」という娘がとにかくかわいい。いつかそんなことは言ってくれなくなる。

「最後とは 知らぬ最後が過ぎていく その連続と 思う子育て」
という短歌を残した俵万智さんの言葉をいつも頭に思い浮かべている。
これが最後かもしれない。もう誘われないかもしれない。
まだビールが半分残っている。
まだおつまみが残っている。
洗い物も溜まっている。
でも。
今しかない。「あそぼうよ」と言われた今しかないんだ。

そして遊ぶの意味をもうち一度みると「有意義な働きをしない状態にある」
とある。不意にグサッと後ろから刺された気がするのは気のせいか冬晴れの陽気のせいか。
まぁ何にせよ、遊びは大事だ。
有意義な働きをしない状態をあえて作っているんだ。そう言い聞かせて今日もnoteを書き溜める。

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