#50 髙松 宮沢君への弔辞を読む
#49で 、私が、宮沢君に弔辞を書いた、とあります。
これは、宮沢君がSDGs協会の学生局長を退任したときに、顧問である髙松がお別れの挨拶を書いたということです。(本人も私も健在です)
当時の記事は#49の最後にリンクを貼ってあります。念のため、#50で全文あげておきましょう。
このことで気づいたこと。
個人的に、人生初の弔辞を読んだのは父の葬儀です。葬儀会館などは当時なく自宅葬儀。しかも父が現職議員であったので、沿道で出棺を見守る多くの人の列の中、雪交じりのみぞれのちょうどこの時期、神戸の震災の年でした。
その弔辞の原稿は紛失してしまってます。たしか前日の通夜の夜に、荷物の散乱した自分の部屋で万年筆で原稿を書いたのを覚えています。
弔辞は死者への哀悼以上に、同時に参列者への感謝を死者にかわり伝えるという意味があるんでしょう。そうおもって書いた部分があります。
髙松の書いた宮沢君へのお別れの挨拶を、彼が弔辞と捉えていたことに軽い驚きとともに、彼の受信力に対し、一方では、なるほどと思う節もあります。
なぜなら、高校2年生でいよいよ受験という人生の節目の時期に彼のおこなった学生局の活動を、人生の節目ととらえ、ねぎらいとともに、ひょっとしてもう会わないかもしれない、と心のどこかで私自身が考えていたのかもしれないということに気づくからです。
よくよく考えてみて、弔いといはなにか。父の死後、きわめてあたりまえのことに気づきました。それは、もう二度と父とは会話もできず会うこともない、というあまりに当然のことでした。
今後、弔辞を書いたり読んだりすることはおそらくないでしょう。おそらくとといったのはまだ母が生きているからです。親族の弔辞は、儀礼としても必要でしょう。
弔辞を私に託す友人はほぼいないはず、いたとしても私の年齢からいって私のほうが先に自然と消えるはずですから物理的に無理でしょう。万が一、読むとすれば、私より若い世代に対してになります。しかしこれだけは避けたいことです。
弔いとは、生きている側の人間がいつかまたその人に長い人生で出会うときがあるかもしれない、というひっそりとした片付けの作業のように感じます。でも多分いつまでも片付かないということを知りつつです。
そう考えると、宮沢君が別れの挨拶を弔辞ととらえたことは、ある意味で正しかったのかもしれません。