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#115 授業で学ぶことをもっとたいせつにしたい 学習科学とベースにして

授業が成立するには条件がある。時間と空間。さらに学ぶ人と教える人。通常学ぶ側は集団で、学ぼうという気があるかないかわからない。

これは枠組みでいうと、お弁当箱のようなもの。そこになにを食材とし調理して盛り付け、なおかつ購入して食べてもらうか。そして空いた弁当箱をだれがいつどのように洗ったりして、処理するのか?そこまでが運用であり実践である。それはそこに学ぶ児童生徒をみること(観察・分析・アセスメント)からはじまる。どんなお弁当がいいんだろう。

これは実施とはことなる。実施。これは誰にでもできる。ただ弁当箱を並べて、指導要領から出てきた教科書をみて教えればいい。もっというと、どこかのスーパーで買ってきてもいい。

PDCAというのは実施に近い。それは計画であって、中身のないお弁当箱でしか過ぎない。あっても食品サンプルか学ぶ側に配慮はない。学ぶ側の論理が欠落しそうになる。

私たちの日常は非合理で非論理的で思いどおり行かない。それ故に各状況に応じて判断し試行し、行動する。この部分がまさに弁当箱の中身だ。授業は科学である一方で、クラフトマンのような造形芸術の側面を持つアートでもある。授業が科学であるとともに科学ではない部分もあるというジレンマがある。上位の指導者が指導する文言にケチはつけられないが、しかし、自分の実践とどうそれが関与できるのか?という疑問符がある。

「学校の公開授業では通常、学習指導案がでてきて、授業がそれにそって実施され、その後検討会で討論がある」。しかし「それ」は、指導案の弁当箱の外観と盛り付けをみているだけだ。どう調理されてだれがどう食したか、あるいは食さずにいたか、さらには、未完のままの残りのおかずやお弁当箱をどう扱っていくかまでは視野にはいっていない。あくまで、「それ」上の閉じた議論になる。

つまり入力の教授と出力の成績をみているだけで、そのプロセスがどのようにからまってその成績になったのかはブラックボックスで、そのボックスの中にこそ、教師の心としての疑問符が詰まっているのではないか。それが解消されない研究や研修は無意味だ、という主張もありうる。

特別な授業を特別な生徒と先生と教材で実施しても、それはあくまで特別であって、日常生活のなか、朝食としてのごはんの栄養もありがたみもないだろう。

設計図は必要だ。航路図のようなものだ。ただ悪天候であれ上々の天気であれ。その通り航路をとってよい時と悪い時がある。だからそこで修正が入る、これは授業でいうデザインにあたる。デザインは即時的で即興的で創造的である。その背景には、ほんものの知識・アカデミズムがある。提供できる窓口をいくつかもっていると、それができる。

そういう授業をするには時間もコストも、そしてリスクもある。それを乗り越えるしか方法はないとうことを肝に銘じて、学習科学という思想にふれてみた。

授業が成立するのはいくつかの窓口が啓示のように現場実践と一致したときであり、自動的にそれが学びということの意味と快楽をもたらす。そのような快楽は教室でしか実現しない。なぜなら、快楽は多くの声の和声的響きのなかに自分が協調するなかで生まれるからだ。その響きに浸れるときこそ教師の喜びである。