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#19 宮沢君にとり学校行事はなぜ重要なのか?活動は対話を生むから

学校は勉強の場、学びの場。学びとは人と人が共感し連帯し信頼する社会性を育む場といえる。いまそれが剥落している。成績と偏差値で人が評定される。宮沢という個人ではなく、制度化された宮沢君の数値の偏差値と得点が一人歩きする。これを情報社会という。宮沢君の偏差値ですべてを語ることはできないはずだが。

学校行事に否定的な教師は、その運営と多忙さに嫌気している。また、その成果に疑問をもつ。それは制度化されすぎているから。行事はイベントではなく、生徒による自治で実施されるべきものとして生徒に贈与されるべきなのだ。

戦後、アメリカはクラブ活動民を民主的活動とした。それが、部活動という怪物になって自治ではなく教師の指導・制度化が中心になった。いま、自治的活動は日本の社会にはほぼないといってよい。なぜか。自治的活動による対話と連帯の可能性制度化されすぎて窒息しているからだ。

宮沢君は生徒会を運営し、また、SDGsにもかかわり、その経過を垣間見見てきた。あらゆる行事は活動であり、活動は対話と共同体を生む大きな対抗軸となり社会を変える可能性に開かれる

活動が窒息するのは形骸化、つまり、主体となる自己と他者の関係性の意味が消滅しているからだ。そこにある祝祭的な要素はどこかの遊園地のレベルの祝祭である。神という超越者もいない。対話もない。

哲学者ハンナ・アーレントは、ドイツがファシズムに傾く中で、なぜ人びとは全体主義を指示したのかを詳細に分析した。彼女は、労働と仕事ではない、自由な活動に対話性を見出す。一見生産性のない活動に多くの対話があり、公共性が見いだせる。

学校行事は活動であるということから見れば、対話と協働がうまれる。その活動を授業でも取り込むことで授業は生まれまわる。公共性は対話である

数値化をこえる相互の信頼を活動からみいいだすことは可能である。公共性に向けた対話が行われる場は、たとえばこのNOTEでも可能である。なぜならここは宮沢と髙松の対話的空間だからだ。


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