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#41 [好きだけど嫌いなニッポン] 故郷の喪失を乗り越えたい

宮沢君、曰はく、「この国は好きだけど日本は嫌い」その意味を深ぼってみる。

国というので、ふと浮かんだのは、自然のある懐かしい風景

杜甫:国破れて山河あり
魯迅:「故郷」
スメタナ:「わが祖国 第二曲・モルダウ」
佐藤眞:「大地讃頌」
そういえば、ドボルザークの新世界の第四楽章、これはアメリカから故郷へのつのる思い。第二楽章はまさにチェコへの思いであり、新興国家アメリカの近代への違和感でもあり、第四楽章は、静かで力あるゆたかな郷愁へ導かれる。

国とは生まれ故郷である。
ハイデッカーは故郷喪失という。自分の居場所。外部にむけて戦いそれを癒す場所、安住の場所。生まれる場所は選択できない。どこで死ぬかはかろうじてまだ可能だろう。すくなくとも病院で死ぬということ以外。

人は身体の自由を獲得し、移動も職業選択も居住移転も国籍も選択が自由になったが、それは自由を選択する自由という不自由でもあり、自由を放棄する自由でもある。サルトルの言う「「自由の刑に処せられている」。

我々がかつて生まれ育った故郷にもどってみると、そこはかつての故郷はなく、すでに時間に蝕まれた故郷となっている。この国は確かにあり私も過去と未来をつなぐ存在としてあり、その経年変化の中で生きている。そういう実に不確かな不安のなかに存在している私がいる。明治来の近代化は日本人をどのようにそだててきたのか?私はどのように育ってきて育っていくのか?ここにいう私とは私という個人ではなくある全体を代表する匿名の私一般という両面性を持つ個人としての私である。

その私一般の故郷としての日本とその私一般を包摂して機能する国家としての日本。そのことを自覚している個人としての私。

この葛藤がずっと潜在的に個人としての私に某る問いをせまる。その問いとは、さまざまなレベルの問いでもある。ただひとつわかっていることは、問いへの解答は「この国は好きだけど日本は嫌い」ということなのだ。

解答の問いをみつけること。問いをたてるここと。その問いの意味にふくまれる葛藤を生きていくのが個人である私の責任である。その責任を負うのは政治家であり官僚でありエリートであるはずだが、残念にもいまや政治家も官僚もエリートではなく一般化された政治家と官僚として匿名性の無責任な機能の集合体になっている。

すなわち、エリートの居場所はエリート自身が獲得する闘争をしなくてはならないのだ。私一般である個人としての私がその役割を果たせるならば果たべきで、その仕事は自覚ある人に必然的にやってくる。問いを立てることでしか解答は見つからない。


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