#65 なにかの犠牲となることをモーツアルトの音楽から考えてみた
猛暑の午後、暑さを逃れてマクドの冷房のきいた空間でモーツアルトについてある人としゃべっていたら、それ面白い、といわれた。なぜか最近、モーツアルトが気になりはじめていたから自然とそんな話になったのだろう。おしゃべりの内容はモーツアルトの音楽の背景やモーツアルトの人生にからんだものだった。岩波ジュニア新書をもう一回読んでみた。これまでモーツアルトの作品は交響曲から協奏曲、セレナード、オペラなど一応は聞いている。気が付くと、中学生の頃に傾倒したベートーベンやブラームスからは、年齢と共に離れていって、最近はモーツアルトになってきた。なぜだろう。
中高生のころは疾風怒濤の青春で自我の強度を求めてしまう。ある程度年齢を重ね清濁併せ飲み、中庸の意味も知るようになると、主義主張よりも、謙虚な弱さ、悲嘆のなかの希望、救済を経たなにがしかの強さ、を求めるようになる。ある意味では諦観、諦めである。見るべきものは見たような気分である。最後の何かしらのまとめである。夏の盛りにふと秋を見つけてしまうような喜びと失望と気づきと孤独のいりまじった感傷に近い。
実際、いまもっとも落ち着くのは、夕刻のグラウンドの傍らの森から聞こえるセミの声と上空の雲の色の時間的変化を見る時だし、つい最近だと、誰もいないような田園風景のなかの源泉温泉のたゆとう湯船であったりする。川ぶちの昼下がりの倉庫の周りの桜の木に鳴くセミの声と揺れる木漏れ日、しずかに生を終えるような。
若いころ、モーツアルトは天真爛漫で明るくてしかも幼稚で綺麗。それだけだった。興味は持てなかった。唯一、最後の交響曲(41番・ジュピター)は聞いた。おそらく次のベートーベンに繋がる様式であったことと、すでにモーツアルトが死を感じて自分の書きたいことを誰にも遠慮せずに表現したからだろうか、と、今にして思う。
あらためて彼の年譜と伝記を新書片手に辿ってみると、今の時代に即していえば、決して成功とはいえない人生である。葬儀は数名の参列ともっとも安い費用で執行され、埋葬地は集合墓に近いそれであり、数年後に妻が墓参した時には、すでに彼の墓がどれかもわからなくなっている。
絶対王政と教会の大司教が権力をもつ時代。宮廷音楽家としてしか生活の道はなく、公務員・召使いとして貴族の要求に応じた音楽を提供して生きることが要請されていた。モーツアルトも就活に向け盛んにあちこちに手紙を書いており、各地の貴族の前で演奏し、パリ・ロンドン・プラハを旅行しては伝手を頼りに安定した公務員生活を得ようとしている。しかし、同僚の妬みや政治権力のなかでその願いは一度もかなえられていない。第一にイタリア音楽が正統であり、生地のザルツブルグは辺境とみなされていたらしい。
職業音楽家の成立の過渡期。もしもモーツアルトが宮廷音楽家として活躍できていたら、それなりに作曲もしたであろうし、ひょっとして、今でいう転職・フリーになっていたかもしれない。しかし事実は、宮廷音楽家の地位は不遇にも得られず、それゆえに音楽を作曲する中で、無意識のうちに音楽の犠牲者となってこの世に音楽を残したような気がする。音楽に魂を売ったというといいすぎだろうか。
なんとなれば、音楽のキリストのような気もするが、モーツァルトは教会音楽を作曲するとき、キリスト教のことは考えずもっと普遍的なことを考えていたという。最後の「アベ・ベルム・コルぷス」はそのような曲である。
犠牲。これは相当に重大なことである。もし自分の人生を振り返って何かの犠牲になっているのであれば、それはそれで大きな意味をもつのではないか。モーツアルトが気になるのはそういう自分の問題がある。