私、これから言いたいこと言って生きていきます。
giftedって知ってます?
一緒に考えてみませんか?
・違いは間違いじゃない
・個性を理解されずに苦しい人もいる
・自分の知っていることの外側で生きている人もいる
・優秀か優秀ではないかだけで才能がある・ないと決めつけている人には新しい視野を取り入れてほしい
・「何言ってるか理解できない」と相手を批判する前に、自分が理解していないことがあるのではないかと疑ってみよう
・自分にとって普通のことが集団からは劣等として扱われる苦悩を抱えて生きている人たちの見る世界は、想像の範疇にないこともある
他にも読んでほしい記事や本がたくさんあります。
giftedというカテゴリーを創るのが良いかといえば、そんなカテゴリーすら要らないくらい人と人の尊厳が対等な社会を創りたいです。
私がgiftedかどうかということを言いたいのではありません。ただ、私の今までの活動の根底にある一貫した想いの源泉は幼少期からの自己体験に起因しています。
感受性が豊か、神経が敏感、それだけでは抱えきれない苦悩がある子供たちが、のびのびと自己表現できる社会にしたいです。
そんな人生を生き抜いてきて人の痛みがわかる大人の人たちと一緒に何かを生み出していきたいです。
だから私は学びます。
学ぶこと、知ることで、自分の中の何かを、言語化することができるようになります。
学ぶことは私にとって自己表現の手段を、私の考えを誰かに伝える手段を一つ増やすことに過ぎません。
それでいて、知ること、学ぶことで自分の人生体験を整理整頓したり肯定されることもあります。
私の頭の中はおもちゃばこをひっくり返したようにたくさんの絵が浮かんでいて、ピントを合わせるとそれがアップになって、それを眺めながらお話をします。
会話することを28歳からトレーニングしました。専門のトレーナーの先生に2週に一度2時間ずつ対面で、ときには深夜までお電話でも、感情が爆発するので、自分を客観的に見るという手段を自分にインストールして、それは型に嵌めることにはなりますが、ある程度の枠組みを持つことで、ゼリーが固まるみたいに、整理整頓することができます。
そうやって、固まったゼリーみたいな感情に名前をつけるところから始めました。
言語化することは私にとってとても大変なことでしたが、誰かを勝たせたいがために、大切な人たちが笑顔、それがモチベーションでした。
一所懸命伝えることをやり続けて、それがやれるようになるたびにたくさんの感動もありました。
成果結果はその目に見えるフラッグ🚩でした。
誰かと喜び合った数の分だけ売上や数字になって表れました。周りに人が増えていき、笑うようになりました。
毎日お箸を1時間口に咥えて笑顔の練習もしました。
笑顔がいいねと言われた時、やっと褒められたというような気持ちで嬉しくてたまりませんでした。
すべて、先の見えなあ階段に印をつけていくような体験でした。やれることが増えることは今も喜びです。
今は、あんなに機械音痴な私がなんと!premier Proを使って0.5秒単位の動画編集までできるようになりました。
まさか私がMacBookを買うなんて、という日から半年足らずでブラインドで文字が打てるようになるなんて、人生には何があるかわかりません。今では一日数百通のメッセージを端から端まで読んで日に12〜13時間デスクワークをしていられることが奇跡です。
自分でもびっくりです。
やったことがないことややりたくなかったことの中に新しい可能性がたくさんあるのを知りました。
一つの編集作業もやっぱり一度集中し始めると7〜8時間没頭します。でもとても楽しくて充足感と達成感がやめられません。それにしても未だにExcelは使えませんw
母親ではないので親の気持ちはわかりません。
私はとても感情的だし稚拙なところがありますが、この歳で同学年の友人たちが子供の入試や卒業式の話をしていると自分が誰だかわからなくなります。でも、私の体験と同じような体験をしてきた子供たちの気持ちならわかると思っています。
ベルフルールやテレジアや夢実現プロジェクトも、やりたいことの手段で、実現のためのスタートに過ぎませんでした。スタートして数年で世の中に沿っているかどうかはわかります。望まれるものは生き残るし、要らないものは要らないのです。
だから形が変わることに抵抗も執着もありません。
キャッシュポイントがないとかビジネスが下手とか色んなことを言われてきましたが、今はもうそんなことで傷つくフィールドにもいません。
私自身を考えます。
一人になる時間がとても豊かです。
まさか私が毎朝走ることが快適になることも私自身が一番想像してなかったことの一つです。
そうやって身体と心を毎朝クリーニングします。
人生の幅を広げることを今働かせていただいている環境で学ばせてくださっています。
自己評価は低くても自己尊厳はしっかり持っていることを最近確信しています。
小さな頃から些細なことでたくさん傷つきました。怒りが表出してたくさん人を傷つけました。そんな自分とも向き合う時間になりました。
やっと最近傷つくことが受け入れられるようになったというか、少し強くなったように感じます。
誰かの評価や視線や態度にもう悲しむ必要がないと気がつきました。
心が痛む時は今もあります。簡単な一言で誰かを傷つけることを知らない人、自分基準で人を非難する人、人を蔑むことで自己尊厳を保とうとする人、そんな一面を見ると悲しくなります。なぜなら、私自身がそれをやってきてしまったし、そうやって大切な人たちのことも傷つけてきたと思い出すからです。
あの時の相手の方々の、一人一人の顔は今もあの瞬間を思い出して苦しくなります。
いつまで引きずってんだ、という人もいます。
だからわざわざ人にはもう話しません。
過去を引きずっているのではありません、あの時傷つけてしまったその人の心の傷は一生消えることがないと知っているだけです。
薄れて忘れてしまってくれてたらいいけど、きっと一度着いてしまった傷は取れることはないと思います。
償いにはならないですが、学んで、私のこれからの人生を誰かの喜びに繋がることに使っていきたいと思って今一つ一つを選択しています。
これからもまだ、こんな自分と顔を突き合わせて生きていかねばなりません。だからこそ、やりたいことを自分にやらせてやって、滑稽でも不器用でも、人様にご迷惑をかけることがあっても、ありがとうとごめんなさいは忘れないように、自分が自分の1番の理解者応援者であれるように、学ぶことを続けます。
私が心から笑顔でいられればきっと、どなたかのことも笑顔にして差し上げられるはず、と思っています。
元気だけが取り柄です😊
ご紹介記事
DIAMOND onlineより
スタンフォード発
日本人の
「ギフテッド教育」の常識が
大間違いな理由
星 友啓
⬇︎
https://diamond.jp/articles/-/252360
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